渋沢栄一のルーツ

2019年04月17日

 

 2024年からお札の肖像画が変わることになった。

 1万円札は500以上の企業の設立に関わった実業家の渋沢栄一、5千円札は津田塾大学の創立者津田梅子、千円札は細菌学者で北里大学創立者の北里柴三郎に決まった。そこで渋沢栄一のルーツを紹介しよう。

 渋沢栄一の家は埼玉県深谷市血洗島の旧家で、代々市郎右衛門と名乗り、一族の間では「中ノ家」という屋号で呼ばれていた。苗字は地名の「しぶさわ」から発祥したもので、「しぶさわ」とは湿地のことだろう。出自は『姓氏家系大辞典』に藤原秀郷流波多野氏族ではないかと書かれているが、明治3(1870)年の官員録には「租税正 正七位守 源朝臣栄一 渋沢」とあることから、本人は源朝臣を名乗っていた。

 栄一は幕臣に召し抱えられてフランスを視察。帰国後は新政府に招かれて大蔵省に出仕したが、明治6(1873)年には退官して実業界に入り、国立第一銀行をはじめとして約500社の設立に関与し、一橋大学や東京経済大学の創立にも関わった。明治から昭和にかけて我が国の実業界に多大な影響を与えた人物である。

 その功績を認められて大正9(1920)年には子爵を授けられた。家紋は違い柏である。

 従兄に渋沢成一郎がいる。成一郎も一橋家臣から幕臣になった人物で、彰義隊を率いて榎本脱走軍に参加したが、箱館戦争のさなかに戦線を離脱。湯の川(函館市)に潜伏したものの、逃れならないと悟って降伏し投獄された。釈放後は栄一と同じく官吏をへて実業家となり、やはり成功した。

 ところで渋沢はことあるごとに出身地の血洗島村の由来を質問されたそうだが、この恐ろし気な地名は、清和源氏の嫡流である源義家(八幡太郎)が後三年の役(1083~9)のころ利根川の戦いで片腕を斬り落とされ、この地でその血を洗い流したという伝説に由来している。腕を斬り落とされたのは義家の家臣だという話もある。これは文字から付会で創作されたものであることは間違いない。正しくは利根川のたび重なるはん濫で「地が洗われた場所(しま)」ということだろう。