家系図の話 明治の複名禁止令

2019年03月11日


 江戸時代の武士は名前を二つ持っていた。通称と実名である。赤穂義士の大石の通称は内蔵助で、実名は良雄。西郷の通称は吉之助で、実名は隆永。いまは隆盛の名前で知られているが、実は隆盛は父親の実名で、西郷のものではない。維新の功績に対して朝廷から位階が授けられたとき、西郷は友人の吉井友実に手続きを頼んだ。そのとき吉井が誤って父親の名前を届けてしまったのである。実名は諱(忌み名)ともいい、忌む言葉、口に出して言うのをはばかる名前だった。そのため、たとえ友人であっても知らないことがあり、一生の間で使う場面は系図に書き込むか、死後に家族が墓石に彫るときくらいだった。しかし、西郷が位階拝受のとき朝廷に届けたことでも分かる通り、名前としては通称よりも実名の方が格上と思われていた。

 明治2年(1869)4月、森有礼(薩摩藩士。初代の文部大臣)は通称の使用を禁じ、実名のみを使用するべきだという建議書を公議所に提出した。

第一 通称ヲ廃シ、実名ノミヲ可用事

第二 亦官位ヲ以テ通称ニ換ル等ノ弊モ矯シ、上下一般実名ノミヲ可用事

 通称廃止の理由の一つに、実名は通常二字なのに対し、通称は(新左衛門など)五、六字になることがあり、書くのが煩雑不便と森は言っているが、いかにも合理主義者の森らしい。

 この森の提案は時期尚早だとか、武士の身分によって区別すべきなどの意見が出たが、4月27日には、「今後、士分(上級武士)は通称を廃して実名のみを用いるべし」という案が163対11の圧倒的多数で可決された。

 しかしこの森案には何ら拘束力はなく、明治5年(1872)に近代最初の壬申戸籍が作られ、一名主義が徹底されたとき、士分のなかにも後藤象二郎や板垣退助(江藤新平は士分以下)のように通称を登録した者もいた。ただし、森案を知ってか知らずか、世間の武士たちはそうじて上級武士は実名を登録し、下級武士は通称を登録した実例が多い傾向にあることも事実である。役所では、同一人物の複名と一名をすり合わせるため、戸籍に名前を登録したさいに廃止したほうの名前を記録した「廃名記」を作成したという話もあるが、現在、そのような文書は残されてはいない。

 除籍に記載されている武士の名前から、その旧藩時代の身分をおおよそ推測することができることは、除籍を読み解くとき、知っていなければならない重要な知識である。