家系図の話 廃仏毀釈と過去帳

2019年03月21日


 家系図を作成するとき、まずは戸籍と除籍から調査をスタートさせる。自分の戸籍、父親の戸籍か除籍、祖父の戸籍か除籍、曽祖父からはまず除籍だろう。一つ一つ除籍を取得して明治19年式まで入手できれば順調である。役所の廃棄状況によっては明治31年式、あるいは大正4年式しか残されていないという場合もある。反対に、近代最初の明治5年(1872)の壬申戸籍は閲覧が禁止されているので、最初からあきらめるしかない。

 除籍が揃うと、次はそこに記されている人名を他の記録と符合させる作業に移る。武士であれば、明治初期の改正禄にともなう明細短冊や分限帳とすり合わせを行う。庶民であれば、宗門改帳や地方文書ということになるが、なかなか村人の氏名が網羅されている古文書は残されていない。そんなときに役立つのが菩提寺の過去帳である。過去帳とは、その寺院で葬儀を執り行った檀那の名簿だが、寺請制度が始まった寛文年間(1661-73)あたりまでのご先祖の名前(俗名)と歿年月日、戒名(法名・法号)をまとめて知ることができる。過去帳が散逸することなく受け継がれていれば、武士であれ、庶民であれ、その記載事項を基にして、江戸初・中期までの家系図を組上げることが可能なのである。家系図を作成するうえでこれほど有益な史料は、ほかには藩士系図くらいのものだろう。

 家系図作成の史料として大変に貴重な過去帳だが、実際に寺院に問い合わせてみると、古い時代のものは失われてしまったと言われることが多い。理由はいくつかあるが、まず多いのは災害である。洪水や火事、戦災でお寺が壊滅的なダメージを受け、そのときの住職が持ち出せずに失われることがある。過去帳は最優先で持ち出すように本山からお触れが出ているが、なかなかそうもいかない。宗派が変更になった時、あるいは変わり者の住職が理由不明で処分してしまうということもある。

 もうひとつ、過去帳が失われる原因としてあげられるのが廃仏毀釈である。廃仏毀釈とは慶応4年(1868)3月の神祇事務局達の別当・社僧の復飾命令に始まり、明治10年(1877)1月の教部省の廃止まで続いた全国的な寺院の破壊と僧侶に対する迫害のことであるが、地方官や神主、御師に平田派国学や水戸学の信奉者がいた場合、徹底的に寺院の廃止や合併を行った。

 廃仏毀釈は地域によって実施された程度に大きな差がある。最も激しく行った地域としては鹿児島県・島根県隠岐・(岐阜県)苗木藩・(長野県)松本藩・(三重県)伊勢山田・高知県・富山藩・新潟県佐渡・(香川県)多度津藩などが知られている。さらに、これらの地域でも行った者の思想によって内容に差がある。平田派の国学者が指導した地域の廃仏がもっとも徹底しており、寺院はことごとく破壊され、住民は神道への改宗を命じられた。鹿児島県県や高知県、隠岐・苗木藩などはこのパターンである。一方、水戸派の国学者の手によって行われた廃仏は必ずしも神道への改宗を目的とするものではなく、それまでの寺院による経済的圧迫から住民を解放する点に主眼が置かれて実施された。

 いずれにしても、これら廃仏毀仏が徹底して行われた地域の家系図調査はそうじてハードルが高いということができる。

 なお、廃仏毀釈に関する研究書として次の文献が参考になる。