江戸~明治時代の女性名について
江戸時代から明治にかけての女性名は記録に散見されますが、宗門人別改帳などを見ると男性名よりも同名の率が高いことから、個々を区別するためには「〇〇のたき」のように、名前の前に屋号などを冠して呼んでいたものと推測されます。
『名前と社会ー名づけの家族史ー』(上野和男他著、早稲田大学出版部、2006年)に上野国の縁切寺(離婚したい女性が助けを求めるお寺)として有名な満德寺に駆け込んだ女性112名の名前が紹介されています。
(あ)あさ2人
(い)いく いし いせ いち いと いの いよ
(う)うた
(え)えい
(か)かね2人 かく かや
(き)きよ3人 きく2人 ぎん2人 きち きぬ
(く)くに2人 くま
(け)けい2人
(こ)こう
(さ)さか さつ さよ さわ
(せ)せき せん
(そ)そよ
(た)たき4人 たみ2人 たか たけ たつ たよ
(つ)つね2人 つる
(と)とめ2人 とよ2人 とう とく とみ とも とら
(な)なか3人 なお2人 なみ
(は)はち はつ はや
(ひ)ひさ2人 ひち ひて
(ふ)ふみ3人 ふさ2人 ふて
(へ)べん
(ま)まさ3人 まつ3人 まき まん
(み)みえ2人 みさ みち みつ みよ みや
(む)むめ2人 むら
(も)もと2人 もよ もん
(や)やす
(よ)よし2人 より よの
(り)りん2人 りえ りそ りよ
(わ)わか
人数のない名前は1人です。
江戸時代から明治時代の女性名の特徴としては以下のことがあげられます。
1、かな2文字が圧倒的に多い。
2、男性名に比べるとバリエーションが少ない。
3、佳字(縁起の良い文字)が多い。
4、変体かなで書かれることが多い。
5、歴史的仮名遣いである。
6、古くは貴族の子女の名前だった〇子が一般庶民にまで浸透したのは明治中期以降のこと。「むめ(うめ)」という女性に手紙を送る時、宛名に「むめ子様」、または「梅子様」と書く習慣があり、「むめ」さん自身も「むめ子」「梅子」と名乗り、自署することがありました。津田塾大学を創立した津田梅子も戸籍名は「むめ(うめ)」。成人すると梅子と自称し、後には戸籍名まで梅子に改名してしまいました。
女性名の歴史をもっと詳しくお調べになりたい方は、角田文衛氏の『日本の女性名』(教育社、1980~88年)のような名著がありますので、そちらをお読みください。
余談ですが、上野国の德満寺は現在の群馬県太田市徳川町にあり、鎌倉の東慶寺と並んで女性のための縁切寺として有名でした。この寺に特別な権限が与えられたのは、2代将軍秀忠の長女千姫が大坂城落城の後、一時この寺に入ったことに由来します。その後、このお寺に逃げ込んだ女性は何人であっても連れ出せないしきたりとなったのです。鎌倉の東慶寺もやはり千姫ゆかりの寺で、豊臣秀頼の娘・天秀尼(千姫の養女)が東慶寺で尼僧になったことによって同様の扱いを受けました。
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