読書の賜物(2)
さきに掲げた宮子村には、明治四年「苗字附改帳」をさかのぼること二九年前の天保一四年(一八四三)九月の「頼母子取立御加入御姓名帳」がある。頼母子帳にはすべて苗字が記載されており、宮子村の住人四五名が載っているが、そのうち三五名が「苗字附改帳」の苗字名前と同一である。
また明治三年の平民苗字許容令の前年の「神葬祭願書」があり、そこには寄金をよせた村人一〇五名が載せられているが、そのうち七〇名が「苗字附改帳」と一致する。
『名前と社会 -名づけの家族史ー新装版』(シリーズ比較家族第Ⅱ期3)
上野 和男・森 謙二編、早稲田大学出版部、2006年
文中の「苗字附改帳」というのは群馬県那波郡宮子村(伊勢崎市宮子町)に残されていた文書で、正式な名称は「明治四年 御一新改正ニ付百姓苗字附ル」というものです。翻刻されたものが『群馬県史』資料編近世6(1986年)に収録されています。この文書は明治3年(1870)9月19日の太政官布告で「自今平民苗字被差許候事」という平民苗字許容令を受けて、宮古村の農民がどのような苗字を名乗ったかが分かるものです。そして、この「苗字附改帳」に登録されている苗字の大半が、さらにさかのぼった天保14年(1843)の「頼母子取立御加入御姓名帳」にも見えるというのが興味深い点です。
江戸時代の庶民が実は苗字を持ち、非公式の場では使用していたことは昭和27年(1952)に早稲田大学教授洞富雄氏が発表した「封建社会における百姓・町人の苗字」によって報告され、それ以降、同様の報告が相次いだことにより、現在では定説となっています。
しかし、ここで重要な問題があります。それは江戸時代の庶民の苗字の起源はいつかという点です。天保年間の私文書に見える村人の苗字は、江戸時代以前の中世に生まれ、それが連綿として伝えられてきたものなのでしょうか。あるいは武士を真似て、江戸時代に創姓されたものなのでしょうか。実際にはこの両方が混在していたであろうと私は想像していますが、この問題を史料を用いて論じたものがまったくありません。
この課題は、ある村の江戸初期から明治にいたるまでの私文書を調べ、そこに記されている苗字の出現状況を確認することで、推理の手掛かりを得ることができますが、そのような都合の良い私文書がはたして大量に残されている村があるのかどうか。もしあるとすれば、ぜひとも調べてみたいものです。
庶民は苗字の公称を禁じられていたとはいえ、苗字を持っていなかったわけではない。すでに中世においても庶民の上層には苗字が広まっていた。領主が庶民に苗字を免許した場合も、苗字を与えたわけではなく、従来持っていた苗字の公称を許したことを意味している。
苗字を許された者以外は、領主に提出する公的文書には苗字を記さないが、私的な文書には苗字を使用している例は多くみられる。また、人別帳も、領主に提出する帳簿には苗字は記されないものの、名主の控には、村内の農民把握のために苗字を記したものも見出される。
例えば、常陸国行方郡永山村の安政四年(1875)「正人別書上」には苗字免許の者以外は苗字の記載はないが、同年の「正人別書上控」と題された帳簿には、表1のごとく、一戸を除いて水呑(無高)にいたるまで各戸ごとに苗字が肩書されている。前者は、代官所に提出した帳簿の正確な写しであるのに対し、後者は名主が村内の農民を把握するための台帳として別個に作成されたがゆえに、苗字が書き込まれたのである。
『家の名・族の名・人の名ー氏ー』(シリーズ家族史3)
黒木三郎 村武精一 瀬野精一郎編、三省堂、1988年
本書は比較家族史学会が「氏」をテーマにして編集した論考集です。引用した部分は、そのうち第一部に収められている大藤修氏の「近世における苗字と古代氏族」からのものです。
第一部では「古代の氏と出自」(義江明子)、「中世の『氏』と名字族」(鈴木国弘)、そしてこの大藤氏の論文、次に「明治期における『氏』」(山中永之佑)と時間の流れにそって氏と名字、苗字の変遷を論述していますが、近世の一般庶民が使用した苗字の遡源が中世なのか、近世なのかについては明確な結論が出ていません。鈴木氏の論文で古代の氏が鎌倉時代までは有効に機能しつつも名字にその役割を譲ったことが述べられていますが、それはあくまでも武家における名字のことであり、近世庶民苗字の起源と直接つながるものではありません。この起源について、大藤氏の論文では豊田武氏の『苗字の歴史』(中央公論社、1971年)より、中世には庶民の上層部に苗字が広がっていたことが述べられていますが、では中層以下ではどうだったのか、という疑問がどうしても残ってしまいます。これについては、現在に至るまでよく分かってはいないということです。
とはいえ、この大藤氏の論文は古代の氏が近世に至るまで武家の官位任叙において果たした役割と氏の存続がひいては天皇制を支えた可能性があること、上層農民がたとえ偽系図を作成してでも中世の地侍の系譜を引く家柄であることをアピールすることが重要であったこと、近世における妻の姓についてどのような問題があるのかについて、具体的かつ、分かりやすく論じられています。一読をお勧めします。
よく知られることであるが、源頼朝の妻政子は、北条政子(氏は平)といった。どうして夫の氏である源を名乗って、源政子といわなかったのであろうか。律令に基づいて作成された養老五年(721)の下総国大嶋郷戸籍には、戸主孔王部荒馬、妻刑部竜売と記載されている。室町時代の八代将軍足利義政の妻は日野富子であり、豊臣秀頼の室千姫は徳川二代将軍秀忠の娘であり、その苗字は徳川であった。わが国の歴史を繙くと、夫婦は同じ氏(苗字)を名乗るのではなく、夫婦はの氏(苗字)は別々であったことがわかる。
氏姓は血統を示すものと考えられ、古来から女は結婚で夫の家に入ったとしても、生家の氏姓は捨てなかった。妻はいうなれば「異姓の人」であり、夫婦は別氏であった(高柳真三『明治前期家族法の新装』有斐閣、一九八七年、四三六頁)
『夫婦の氏を考える』
井戸田 博史著、世界思想社、2004年
著者は近代の戸籍に記載された氏や家族法の第一人者です。その著書や論文から学ぶところは大変に多いです。さて、本書では古代から現代までの夫婦の苗字(氏)について述べられていますが、古来から我が国の武家の習慣として夫婦は別氏でした。別姓ではなく別氏と表現しているのは、法律用語としては姓よりも氏が適切だからです。
ちなみに本書では外岡茂十郎編の『明治前期家族法資料』に収録されている明治元(1868)年から同31(1989)年までの政府の布告・布達を検討し、苗字と姓、氏の使用数を示していますが、明治元年から同4年までは苗字の使用が多く、同17年までは姓、同18年以降は氏の使用が中心を占めました。
これによって分かることは、明治5(1872)年の壬申戸籍に登録されたファミリー・ネームは苗字、あるいは姓であって、決して名字ではなかったということです。近代に確定したファミリー・ネームが苗字か名字か、という問題は一般的にはささいな事かも知れませんが、苗字と名字の歴史的な背景を研究する者としては重要な問題です。
その後、常用漢字表で苗を「みょう」と読むことが否定され、中世の名字が復活して現在では文部科学省やマスコミで広く使用されるようになりましたが、その名字という表現を近代前期や近世のファミリー・ネームの呼称として使用することに対して歴史家は違和感を感じるものです。その証拠に歴史家が書いたファミリー・ネームの研究書のタイトルでは苗字が一般的に用いられています。一方、雑学的に書かれた苗字本には氏、姓を含めて、名字、苗字の使い分けについて、誤解を招くような説明をしているものや明らかに誤った記述をしているものがあります。これは残念なことです。
話は本書に戻りますが、明治政府は戸籍の作製後も婚姻した妻の苗字は「所生の氏」を用いることと地方に布達して、地方の現場との間で摩擦を起こしています。政府は「所生の氏」に固執しましたが、現実は夫婦同氏が浸透しており、民意にかなっていなかったのです。政府がこれを変更して夫婦同氏を法的に認めたのは、明治31(1898)年の明治民法の施行においてでした。
旧長田村(大阪府東大阪市長田)の墓地に、徳川時代の年号をもった墓石が現在も残っており、そのうち約半数に苗字が刻まれており、そのすべてが明治期の苗字の公称化に際して家名となっている。③ふだん惣治郎右衛門のような百姓名を家名としている者も、宮座で神主役をつとめている間は、山田源右衛門知明という武士的な苗字通称実名を名乗っていた。
(中略)
(6)さらに、庶民の苗字の私称にとどまらず、公簿といえる検地帳などに苗字と思われるものの記載があり、これが明治になって苗字として戸籍に記された事例もあった。河内国錦部郡滝畑村(現在の大阪府河内長野市滝畑で、徳川期は狭山藩北条氏一万一千石の支配地であった)の例である。文禄三年(1594)11月20日の「文禄検地帳」、天明3年(1783)3月の「田畑地並帳」、寛政11年(1800)の「名寄帳」などに、持地人の名前の上に苗字とみられるものが記載されている。この苗字とみられるものが、明治に入り正式の苗字として戸籍に登録された。
『家族の法と歴史 ー氏・戸籍・祖先祭祀ー』
井戸田 博史著、世界思想社、1993年
井戸田氏の前著よりもかなり以前に出版された著作です。ここで紹介されている事例はいずれも興味深く、示唆に富んでいます。江戸時代の農民が公私の違いだけではなく、立場によって実名まで使用していた報告は参考になります。百姓と実名は無縁のように思われがちですが、地元の神社を管理し、輪番で神主役を務める宮座においては、百姓であっても神主らしく苗字+通称+実名まで使用していました。江戸時代の神主は宗門改帳の上では一般の百姓と変わらず通称しか記されていませんが、神主としての記録には苗字と東百官のような疑似官職名を使用している事例がよくあります。この宮座の神主もそれと同じということでしょう。
狭山藩領内の公簿に苗字らしきものが記され、それが明治の苗字に引き継がれている事例も苗字使用禁令が実は考えられているほど厳密ではなかったことを示していると同時に、農民の苗字の遡源を推測する上で参考になります。
竹田聴洲によると、「今日、都鄙一般寺院の墓地にある檀家の墓碑、位牌堂や仏壇にある位牌、過去帳、回向帳の法名記載は、元禄以後のが圧倒的に多い」ということが明らかになっている。そして竹田氏は、この時期が農民の「家」の成立期であったらしいとしている。
『氏と家族 ー氏(姓)とは何かー』
増本敏子 久武綾子 井戸田博史著、大蔵省印刷局、1999年
本書も『夫婦の氏を考える』と同じく夫婦の氏について研究したものです。とくに妻の氏の歴史的な背景について解説し、外国の子供の姓についても触れています。本書で特に興味深いのは久武綾子氏がまとめられた「氏・姓・名字・苗字の変遷」という論考です。
そのなかで久武氏は浄土宗の僧侶で、宗教民俗学者であった竹田聴洲(1916~80)の『祖先崇拝』(平楽寺書店、1957年)を参考にして、上記の引用のように述べています。元禄年間(1688~1703)から庶民の寺院関係の記録が整えられたのは、寺請制度の影響とみるべきですが、これによって庶民一般の間に家意識が浸透し、苗字を名乗る習慣が広まったという推測は十分に説得力のあるものです。
史料でさかのぼれる近世における庶民の苗字の初見は元禄あたりまでです。それ以前の中世には庶民を対象とした宗門改帳や人別帳が作成されていなかったため、残念ながら確認する史料がありません。世が乱れ始めた室町後期以降は庶民の間でも苗字を名乗る者が出現したことは知られていますが、それが庶民一般の家意識に基づくものなのか、それとも一部の武士身分にあこがれを持つ者に限ったことなのかは、史料の欠如のため、よく分かってはいません。今後の研究課題でしょう。
婚姻・離婚・出生・死亡など人の家族関係・身分関係を公の帳簿に登録し、それを公証する制度を身分登録というとすれば、アメリカにおいても、自分自身の存在を証明したり個人を特定するとか、近親婚、重婚を防止するとか、出生・死亡の年月日や事実を証明するなど個人の身分関係を公証する手段の必要性は存在している。しかし、わが国の戸籍制度のような人の出生から死亡までの身分的変動を一覧できる、夫婦・親子の親族集団を単位とした身分登録簿というようなものは編製されていない。あくまでも人の出生・婚姻・死亡等の事件別に登録簿が調整され、個人単位に、かつ事件の発生順に登録がされそれぞれが独立している。アメリカでは、出生・死亡・婚姻・離婚などの事実登録、成立登録であって、わが国の戸籍のような関係登録ではない。
『戸籍と身分登録 新装版』(シリーズ比較家族第Ⅰ期7)
利谷信義他編、早稲田大学出版部、2005年
引用したのは、同書に収録されている棚村政行氏の論文「アメリカにおける身分登録制度」の一節です。戸籍制度の無いアメリカなどの欧米では先祖を調べることは容易ではありません。自分が知っている範囲の先祖の記録は探し出すことができても、見知らぬ先祖のものとなると、何か手掛かりが無いと調べる術がありません。そんなときに使われるのが1790年から実施されている国勢調査記録です。この国勢調査記録には人種・職業・学歴・収入・宗派など、日本の戸籍に記載されていない情報が載っていますが、あくまでも同居家族を単位としたもののため、戦前の戸籍のように親類まで掲載されているというものではありません。また、量も膨大なため、国勢調査記録とその情報を求めている人の間を媒介するアンセストリー・ドットコムのような巨大家系図会社が誕生しました。アメリカで先祖調査が発展した理由の一つに、戸籍が無かったという点があげられるでしょう。戸籍という先祖調査にとって大変に便利なものがなかったために、アメリカの先祖調査は高度なスキルを学ばざるを得ず、それを手軽にユーザに提供する企業が急成長する余地が生まれたというわけです。
本書にはアメリカのほかにドイツ・スイス・オーストリア・イギリスの身分登録制度に関する論文も収録されています。また、我が国の江戸時代の宗門改帳についても触れられています。
戦前の戸籍法では、戸籍の記載事項として、前戸主の氏名、および戸主の前戸主との続柄があった(旧戸籍法第18条)。この続柄の系譜によって、家族は家督継承の連綿たる系統を確認し、現戸主のみならず一代前の戸主も崇拝の対象として意識化される。家のイデオローグの第一人者、穂積八束が、「家は祖先の祭祀の継続たり」「戸主は祖先の威霊を奉祝し、祖先の威力を現在に代表して祖先の子孫を保護する」ものと説いたように、祖先崇拝は過去と現在における家の成員を祭祀という機会を通じて垂直的に結び付ける。祖先以来の「血統」を確認できる戸籍は、庶民の系譜としていっそうの価値をもつのである。
『戸籍と国籍の近現代史ー民族・血統・日本人ー』
遠藤正敬著、明石書店、2013年
著者は日本政治史の研究家です。本書では、日本人の身分証明としての戸籍の役割をその歴史的変遷とともに論じています。とくに戦前に外地と呼ばれた地域(朝鮮・台湾・樺太・満州・中国など)で戸籍制度がどのように実施されたのか、その制度と内地である日本の戸籍制度とはどのような関係にあったのか、戦後に戸籍を失った人々の就籍について詳しく述べられています。
あくまでもテーマは戸籍と国籍の関係性についてですが、陸軍卿・大山巌の戸籍は「反故紙」発言など、壬申戸籍などに内在していた記載事項の遺漏や不確実性についても触れており、大変に学ぶところが多い一冊でした。
近著では天皇と戸籍、無戸籍問題などについても書かれています。
(沖縄県などの)焼失戸籍の再製に確実に役立つ資料としては、焼失前の戸籍謄抄本をはじめ、日本旅券、当時の県知事が発行した渡航許可証、移民会社が作成した移民名簿、在外公館が保管する在留民登録カードなどがあった。とりわけ在留民登録カードは、移住当時および移住後の身分変動の両方を立証する重要な資料であった。
そのほかに在外公館では、戸籍謄本と移民名簿に基づいて移民者の家族ごとに「戸籍カード」(1934年まで個人単位であった)を作成・整備し、保管していた。この戸籍カードは、日本人移民の現地での婚姻、死亡、出生といった身分変動や移住地を記録したもので、戸籍代わりに利用された。特にサンパウロ総領事館では、笠戸丸第一回移民の時から累々と記録されてきた戸籍カード約15万枚が保管されており、戸籍再製に不可欠な原簿であると同時に、日系コロニアの「歴史」を物語る貴重な資料であった。
『戸籍と無戸籍ー「日本人」の輪郭ー』
遠藤正敬著、人文書院、2017年
遠藤氏の近著です。ここでは、沖縄戦によって焼失した沖縄の戸籍の再製について書かれています。失われた沖縄の戸籍については、現地で再製が行われましたが、ブラジルやアメリカにいた日系人には戸籍の焼失も再製もきちんと伝えられておらず、自分の戸籍が失われ、無戸籍になっていることを知らない日系人が多かったのです。
そのような日系人にとっては、在外公館が作成していた戸籍カードが失われた戸籍に代わる重要記録でしたが、この戸籍カードも実は大半が失われました。日本がアメリカと戦争状態に入ると、北米の在外公館は次々と引き上げました。そのとき戸籍カードなどの記録を焼却処分にしたのです。北米に少し遅れて南米でも在外公館の引き上げが始まります。そのとき、戸籍カードがブラジル政府に渡ると、日系人迫害に利用される懸念があるということで、次々と処分されました。そんななかで、在サンパウロ総領事館だけは戸籍謄本、戸籍カード、移民名簿などを中立国だったスウェーデン在外事務所に避難させて保管を依頼し、全体の一部ではありますが、現存させることができました。
ほかに、まとまって残された例としては在ホノルル領事館が戦前に作成した「在留民登録カード」約6万5,000枚が奇跡的に処分を免れて伝えられていることも本書で紹介されています。