苗字の話


世情の不安と家系図

 安倍政権になっても景気の回復はなかなか実感できない。

 労働者の四割近くが非正規雇用。数万円でも固定給がもらえる仕事に働き盛りの失業者が列をなす光景など、少し前まではテレビで観る外国の出来事でしかなかった。

 日本人が自らの家系にこだわる時代には共通性がある。

 古くは幕末から明治維新のころ。

 この時期の流行は国学のブームとも無関係ではないが、鈴木真年など優秀な系図考証家が出て盛んに古系図を世に出した。一方、この時期のルーツを支えたのは、農村の庄屋・名主などの素封家だった。明治5年(1872)に近代戸籍として作製された壬申(じんしん)戸籍に苗字を登録することになり、それまで先祖代々の苗字をおおやけに使えなかった上層農民が再び苗字を公式に蘇らせた記念として家系図作りに取り組んだのである。だが、家系図というものはそうそう素人が簡単に作れるものではない。そういう家の多くは滅んだ戦国大名の遺臣で、農民となった以後の記録は残していたが、どうせ家系図を作るのなら、やれ源氏だ、平家だ、藤原氏の末裔だというところまでたどり、家宝にふさわしいものでなければ格好がつかないと考える。

 そこで暗躍したのが村々を渡り歩いていた偽系図作りである。

 彼らが有力氏族の系図と農民の先祖を適当につないで立派な一巻の家系図を捏造したのである。そのため、この時期に作製された家系図には偽物が多い。江戸初期までは信用できるが、それ以前はフィクションである。 

 昭和初期にも系図流行が起こった。その中心人物は『姓氏家系大辞典』という前人未踏の苗字辞典を独力で完成させた太田亮(あきら)博士である。この時期の特徴は在野の研究者が多数現れたことでもある。太田博士の系図研究に賛同して全国各地の歴史愛好家や郷土史家が自分の家系や地域の豪族の系図などを太田博士が主宰していた系譜学会の機関誌『系譜と伝記』に多数投稿した。この時期の流行には当時の皇国史観の影響も強く受けていた。我が国は島国なので異民族の支配を受けたことがない。そのため当時も今も我々の心の奥には自分の家系は日本で連綿と続き、現在に至っている古い家系であるという意識があり、また狭い島国のため先祖をさかのぼれば皇族や藤原氏などの貴族とどこかでつながるのではという思いを抱いているのだ。

 第三のブームは昭和50年代から現在まで続くものであり、その立役者は面白おかしく苗字のいわれや地名・家紋との関係を解説した丹羽基二博士である。博士は150冊の苗字本を世に出しており、その最大の功績は珍しい苗字や難しい読み方の苗字の発生過程を実に明確に、分かりやすい文章で解説したことである。これによって人々は苗字に関心を持つようになり、苗字という個々を区別するための符丁の奥深さと豊かさに気づかされたのだ。我が国に2万種類以上もある家紋の美しさや由来を広め、苗字と地名との関係の深さを知らしめたのも丹羽博士である。

 さらにブームを決定的にしたのは昭和53年(1978)に翻訳されたアメリカの黒人作家アレックス・ヘイリーの『ルーツ』である。これはそれまで家系を持たないと思われていたアメリカ黒人の家系を遠くアフリカまで溯って調べ、多くのアメリカ人に衝撃を与えた。ドラマ化され当時のアメリカの最高視聴率を塗り替えたことでもそれは分かる。以後、我が国の家系調査は「ルーツ調べ」と呼ばれるようになる。

 この時期の我が国の家系調査の特徴としては、家系調査を請け負うという業者が世に出たことであろう。自分の家の家系を調べて、調査方法を覚えた人がこの技術で一儲けしようというものが多かったが、いずれも高額な調査費を取り、出来上がった家系図の信ぴょう性には問題がある場合が多かった。

 そもそも日本人の家系というのは除籍簿やお寺の過去帳、江戸時代の戸籍である宗門改帳などで正確に調べられる血系の上限は江戸初期までである。それ以前になると使える史料が極端に少なくなるので、よほどの名家でもなければ家系など調べられるものではないのだが、数百万もの金を経費としてお客に出させる調査会社としては、なんとしても源氏や平家までつなげなければ形にならない。大金を出したお客のほうも代々水呑み百姓でしたということでは納得しない。そこで両者の求めるものが互いに相談することなくして、暗に一致し、かつての偽系図作りと同じように皇族や藤原貴族まで無理やりつないでしまうのである。信ぴょう性という意味では論外のものだが、これは決して詐欺にはならない。なぜなら頼んだお客のほうもそういう系図の完成を心の中では望んでいたからである。よって現在に至るまで、調査会社は絶えることがない。アカデミックな学者が系図の研究者をうさん臭そうに見るのもそういう輩が歴史を冒涜しながら荒稼ぎをしているからである。 

 こうしてルーツブームの時代をみていくと、一つのことに気づく。いずれも世情が混沌とし、経済的に行き詰まった時代なのだ。よく社会が混乱すると人々は心の寄り所を見失い、新興宗教が流行るといわれるが、まさにルーツ調べも同じである。人というのは未来に希望があり、現状に満足していると過去を振り返ろうとはせず、前だけを見ているものだが、希望を見失い、厭世的な気分になると急に過去が気になり始める。自分とは何者なのか、自分はなぜこの世に生まれたのかと考え始めるのだ。希望を見失うということは生きる活力を失うということに通じる。死について真剣に考えることでもある。


ルーツを知ると人は癒される

 以前、ルーツ調べや自分史を書くのは高齢者の趣味と思われがちだったが、近ごろでは若年層にも広がりつつある。NHKの番組「ファミリーヒストリー」の影響も大きいだろう。

 その昔、東京で講演したとき、40代前半の男性がやって来て「自分の高校生の娘はルーツ調べを通じて登校拒否を克服しました」と語った。興味深い話なので、じっくりと聞いてみると、その男性の娘さんが中学二年生のとき、イジメにあって登校拒否になってしまったという。

 親としては心を閉ざし、部屋に籠もるわが子の心を理解することほど難しいことはない。この男性も必死に娘と話し合いを持とうとしたが、それまで娘に無関心だった父親が急に娘の心のドアを開けようと思っても、娘は頑なに心を閉ざすばかりだった。途方に暮れていたとき、男性の父親、娘にとっては祖父がふらりとやって来て、最近家系を調べていると語った。それから頻繁に祖父は来ると、家系調査の成果を楽しそうに話し、あるとき引きこもっている孫娘にちょっと手伝ってくれんかと持ちかけた。娘は戸惑っていたが、次の日から祖父の調査を手伝うようになったという。

 半年後、祖父と孫娘は祖先の足跡をたどる旅に出た。そのあたりから娘に変化が現れ始めた。自分から両親に話しかけ、自分の生まれたころのことや両親の子供時代の話を聞きたがったというのだ。そして江戸時代初期までの家系図が完成した後、娘は学校に通うようになり、高校受験の勉強も始めた。

 何が彼女をそうさせたのか、わたしは男性に訊ねてみた。

 すると「娘が言うにはおじいちゃんと先祖を調べるうちに、壮絶な飢饉を生き抜いた先祖、大津波で家族の大半を失った先祖など、自分の想像もできないような苦しみや悲しみにじっと耐えた先祖のことを知って、なんだか自分も強くなれたような気がした」といい、また「枝葉のように書き込まれた家系図を見ているうちに、両親を通じて自分も彼らの一族なんだと気づき、急に家族が身近に感じられ、大切な存在なんだと改めて思った」と娘が話していたという。

 不登校児や引きこもりの若者たちが見失っている一番大切なものは、家族との心のつながりである。それを言葉で理解させることは難しいが、家系図を作製することを通じて、家族という血のつながった存在を改めて見つめ直し、理解することができるのだ。今後は不登校児や引きこもりの人達にも積極的にルーツ調べを勧めて行きたいと思っている。また、特養老人ホームにいる高齢者に生きがいを与えるのにもルーツ調べは有益である。

 こんな話もある。

 十数年前に『道産子のルーツ事典』という本を出したが、その出版と同時に多数の問い合わせがあった。数百通の問い合わせの中にこんなものがあった。Aさんは樺太生まれで、十代の時に父親を亡くしたという。その父も早く両親と死別しているので、母やAさんは自分のルーツがどこなのかを何も知らされていなかった。父も生前、自分のルーツがどこなかのか気にしていたという。Aさんも年を取ってルーツが気になり始め、父親の除籍謄本を取り寄せてみたが、樺太時代のものは失われていた。そのため本州のどこから樺太へ渡ったのかが皆目分からないので、何とか知る方法はないかというものだった。わたしはAさんの苗字が珍しいものだったので、全国のハローページを使ってAさんの苗字の分布状況を調べてみると、栃木県のある地域にしか存在しない苗字であることが判明した。さっそくそのことをお知らせすると、数日後、返信が来た。そこにはわたしの手紙が届いた日、Aさんの母が亡くなったとあった。意識が混濁している母の耳元で、Aさんがわたしの手紙を大きな声で読むと、母は涙を流し、かぼそい声で「お父さんにも教えてあげるね」と言い残し、息絶えたという。

 わたしにとってAさんに伝えた情報はほんのささいなものでしかなかったが、そんなものであってもこんなに喜んでくれる人がいることを知り、うれしさとともに身の引き締まる思いがしたものだ。


ルーツ調べが困難な日系人と道産子

 人の役に立とうと思うのなら、まず最も困っている人から手を差しのべたいというのが、わたしの信念である。そう考えると、ブラジルやアメリカなどに移住した日系人の三・四世も困難な状況に立たされている。日系人の家系調査の動機は二つに大別される。まず地元で成功し、自分の中に流れる日本人の血に関心を持ち始めた人々である。思うに一世は暮らしの基盤をつくるため必死に働いて亡くなり、二世は地元の住民や国民になりきろうと努力し、日本のことを顧みる心の余裕はなかった。しかし三世や四世になると、すっかり地元に溶け込み、言葉も生まれた国の言葉しか知らない。そのためにかえって見知らぬ異国となった日本に興味を持つ人が多いのだ。次に日本で労働ビザをとるためにルーツが日本人であることを確認する必要に迫れている人もいる。どちらにしても彼らにとってルーツ調べは容易なことではない。言葉が分からないし、日本の歴史もよく分からない。これらに不自由しない日本人でも難しいのだから、すでに頭脳が外国人となっている日系人にとっては、とてつもなく困難な作業である。それでも日本に知人や親戚がいればまだ救いもあるが、それも無いとなるとほぼ絶望的である。わたしも以前、ブラジルの日本語新聞に苗字の話を連載しようと思い、邦字新聞の記者と話し合ったことがあったが、結局は日本人なら小学生でも分かる歴史知識が無く、家紋すら見たことが無い現在の多くの日系人に苗字の由来や家紋の話を理解してもらうのは難しすぎるということでさた止みとなった。しかし、今でも機会があれば最も家系調べが困難な日系人のルーツ調べを手伝いたいと思っている。

 だが、実はルーツ調べが困難になっているのは、道産子も同じなのだ。それは除籍謄本にかつて80年という保存期間が定められているからである。生きている人の籍は戸籍謄本に記載されているが、戸籍というものは転籍や死亡などによって書き換えられ、古い戸籍は除籍扱いとなる。この除籍は長い間、80年しか役所に保管されなかったのだ。現在は150年に延長されたが、80年保存の時期に大正11年(1922)以前の除籍が大量に破棄された。

 これが実は道産子のルーツ調べにとって大問題なのである。というのは、日本人の家系は明治までは除籍、江戸時代は過去帳と墓石を使って調べるが、この過去帳は先祖が葬られた代々の菩提寺にあるもので、墓は祖先が亡くなった本州のどこかにある。この場所を知るためには本州のどこから先祖が移住したかを除籍で知る必要があるのである。近ごろは父祖の除籍を取り寄せてみたら、一番古い除籍の本籍地が北海道だったという人が急増している。そうなると、その家が本州のどこから来たのかを特定するのは困難な仕事で、たとえ知り得たとしても大変な労力がかかる。この場合の出身地は富山県や新潟県西蒲原郡などという大ざっぱなものでは役に立たない。何々郡何々村の字何々まで絞り込みを掛けなければ、本州にある先祖代々の菩提寺や遠い一族を見つけだすことは出来ないのだ。全国に稀な珍姓なら、苗字の分布から居住地を絞り込める場合もあるが、一般的な苗字やましてや佐藤さんや鈴木さんなどの大姓の場合は、とても何々県何々郡の佐藤では調査する手掛かりにもならない。

 古い除籍が失われているのは本州でも同じだが、本州人と道産子の決定的な違いは、本州人は除籍によらなくても田舎にある本家や一族と今でも付き合いがあるという点だ。そういう江戸時代から同じ土地に住んでいる本家と交際があれば、その家に尋ねて代々の菩提寺や墓群を見つけることは容易である。しかし道産子の場合はどうだろう。津軽海峡を渡るとき、本州の親戚や思い出を海に捨ててきたという家がほとんどである。道産子には本州に住む祖父の兄弟の子孫と一面識も無いという人が多いが、これは本州では考えられないことだ。またいとこ(はとこ)などは本州の人にとってはさほど遠い親戚という感覚ではない。身近な存在だ。道産子にの場合、日系人ほどではないが、六等親あたりの本州の親族を探すことさえ容易なことではない。そうなると道産子のルーツ調査にとって除籍は本州の人とは比べようも無いほど計り知れない価値があるのだ。わたしは声を大にして言いたいが、たとえルーツに興味のない人であっても、除籍だけは早いうちに揃えておいてほしい。たとえあなたが興味をもっていなくとも、あなたの子供や孫、さらに子孫が永遠に先祖に無関心だとは言い切れないはずだ。もしそういう子孫が出た時、日本人であれば誰でも江戸時代の初期までは家系がたどれ、日本の歴史の中で自分の祖先がどういう人生を歩んだか知ることができるのに、道産子だけは除籍に渡道以前の出身地が載っていなければ、渡道以後の家系しかさかのぼれなくなってまうからだ。これは家系に関心を持つ者にとっては、大きな問題である。我々人間の過去を葬り去る権利は本来誰にもない。 我々は自衛の手段として、日本人が本来誰でも知り得る先祖の足跡を我が手で保存し、子孫に伝えて行かなければならない。

 北海道の開拓で最も辛苦をなめたのは明治時代に移住し、原始林と熊笹に覆われた原野を農地に変えた人々だが、彼らがいつ、どこから来た人なのかを知る手立てが失われてしまうことは北海道の開拓史にとって重大な問題であり、計り知れない損失である。

 この文を読まれた方だけでも良いから、子孫のために除籍を取り揃えておいてほしい。本籍地が遠い場合は郵送でも取り寄せられるし、一通わずか750円。4~5通取れば江戸末期までの家系はたちどころに判明する。

 次に本州の郷土資料の少なさも道産子のルーツ調べを面倒なものにしている。家系調査を行う時、まず最初に読むべきものは先祖の出身地の市町村誌である。特に市町村誌の資料編は役に立ち、農民であれば江戸時代の戸籍である宗門改帳や納税台帳の検地帳、武士であれば藩士の名簿である分限帳や藩士系図がそのまま収録されている場合が多いからだ。これも本州の人であれば、地元の県立図書館に行けばすぐに見られる。都会の人なら東京の都立や国立国会図書館でほぼ全国の市町村誌が閲覧できるが、北海道の図書館にはほとんど無い。これも不思議な話で、全国からの移民で成り立つ北海道に全国の市町村誌がほとんど無いというのは問題である。北海道の歴史とは何か、それは北海道に住む我々の歴史の集まりであり、我々の歴史とはすなわち家系である。その我々が日本人としての自分を確認するため家系を調べるとき、祖先の墳墓の土地の郷土資料すら満足に読めない環境が良いはずはない。昔は高い金をかけて近くは青森、遠くは鹿児島や沖縄まで行かなければならなかった。大変な出費である。近ごろは図書館相互の貸し出しサービスを利用して国会図書館にある郷土誌を道内の図書館で閲覧することもできるが、それを家に持ち帰って熟読することは許されていない。実に不便である。せめて都府県区郡史と市町村史だけでも揃えてくれないものだろうか。本州にはそういう全国の郷土誌を積極的に揃えた地方図書館もいくつかある。資金が無いのなら、道内で郷土誌を発行するとき、それと交換の形で本州の郷土誌を譲り受ける方法もあるではないか。大規模な博物館を建設するのも結構だが、こういう個人の歴史探求の役に立つ施設も必要ではないか。


家系は自慢するものでもなく、卑下するものでもない

 家系を調べている人がいると、どうせ祖先を自慢するためだろうと言う人がいる。北海道では俺の先祖はヤン衆だからとか、小作人だったから、先祖なんて調べたって面白くもなんともないと言い切る人もいる。たしかに家系調査に熱中する人には武士の子孫という人が多いのは事実だ。それは武士は史料が庶民に比べて豊富だからである。ルーツ調べの面白さの源はどれだけ祖先の史料を見つけられるかということに尽きる。すぐに史料が行き詰まれば、面白さも失せるが、次から次へと出て来れば、興味も持続する。そのため家系に熱中し声高に語る人には武士や豪農の子孫が多のだが、わたしが彼らに事あるごとに注意していることがある。それは家系というのもは自分の子孫にだけ伝えれば良いもので、決して他人に語るものではないということだ。その人の先祖が日本や地域の歴史に深くかかわり、私的な家系ではなく、公の家系とでも言うべきときにだけ問われれば、語ればいいのだ。

 一方、自分の家系を卑下する人にもよく考えてみてほしい。我々は家系というとすぐに自分の父方の家系だけを考えがちだが、一人の人間には必ず両親がおり、その両親には4人の祖父母がいる。さらにその前には8人の曾祖父母がいて、16人が高祖父母が必ずいる。自分に流れ込んでいる血脈を考えると、先祖は膨大な数である。戦前まで日本には特権階級が存在し、身分差別もあった。しかしこの膨大な祖先の全員が尊民であったり卑民であるはずがない。島国日本ならなおさらの話で、どんな家の祖先でもそういう視点でみれば、大同小異なのである。だから家系を誇るのも卑下するのもナンセンスな話だ。我々は純粋に知的好奇心から自分の先祖を調べればいい。過去の日本は封建社会なのだから当然祖先たちは身分によって区別されてしまうが、そんなことはどうでもいいではないか。また自分の祖先をヤン衆だから、小作人だったからといって切り捨てるもの薄情な話だ。たとえばあなたの子孫がもし、あなたが大会社の社長や社会的に成功した人物なら、その人生に価値を見出し、家系図を作製するが、あなたが万年係長だったから、肉体労働者だったから、あなたの人生そのものに関心を持たず、ひいてはあなたという存在自体を無視するような態度を示したら、あなたはどう思うだろうか。憤りと悲しみを感じるだろう。なんと心の狭い子孫よと嘆くだろう。人間の価値が社会的な立場や貧富で計れないことは小学生でも知ってる。だとしたらそういう尺度で祖先を切り捨て家系を否定する言動は、これ以上ないくらい父祖を冒涜することではないか。我々は、彼らが血のつながりのある父祖であり、祖先だからこそ、彼らの人生に興味を持ち、調べるのである。家系調査の動機は永遠にこれだけでなければならない。

 最後に、道北のある都市に建設が予定されていた日本初の苗字と家紋博物館の計画が紆余曲折の結果、白紙となった。この計画はあまりにも規模が大きすぎるもので、現在の北海道の経済状態ではとても実現不可能なものだったが、わたしは全国からの移民で成り立つ北海道にこそ、こういう博物館が必要ではないかと今でも思っている。世界的に見ても系図専門の図書館はアメリカのユタ州ソルトレイクシティにしかない。ここには全世界8億人の家系記録が保管されており、アメリカ全土から連日大勢の人々がやって来て、熱心に資料を検索している。たとえ小規模ではあってもこういう施設ができれば、地味ではあるが、必ずや散逸しやすい日本人家族の記録を保管し、子孫に遺し伝えることができるだろう。そして百年、いや千年後、もし日本人数百万家族の記録が保管されたとしたら、それは巨大な歴史的遺産となり得る。過去の遺物を遺し伝えることだけが文化を伝えるということではない。過去の人間の記録を整理し、書き継ぎを加えながら伝えてゆくことも立派な文化の継承である。道内の市町村や商店街が地域の活性化のために苗字や家紋を利用したいというのなら、我々研究者は全力で協力を惜しまないだろう。