壬申戸籍と身分法



明治5年から作られた壬申戸籍

 近代最初の戸籍は明治4(1871)に布告された戸籍法に基づき、翌5年から作製が開始された明治5年式戸籍です。この明治5(1872)年の十干十二支が「壬申(みずのえさる)」だったことから、この戸籍は壬申戸籍と呼ばれました。壬申戸籍のおもな特徴は次の通りです。


  • 全国の戸数と人口を把握するため、天皇と皇族を除くすべての国民を戸籍に登録する。
  • 登録方法は住所地方式とする。
  • 戸籍事務は国家直接の担当業務とし、各地方の数か町村をもって一区画と定め、その区内の戸数人員、生死、人の出入りなどを詳しく記録する。
  • 戸籍編成区に戸長、副戸長を置いてその業務に当らせる。戸長は地方行政の末端機関の長であり、当初はその土地の庄屋、名主などから選抜された。
  • 戸長のもとに戸籍専任の吏員を置いて戸籍事務を担当させるが、遺漏(いろう)などがあつた場合は戸長と吏員の責任とする。
  • 戸籍は編製後、六年ごとに戸口調査を行い、これに基いて編製替を行い。(これは現在の国勢調査のようなものでしたが、居住移転などが多かったため実際には実施されませんでした)
  • 戸籍簿は町村単位で編製され、町村内の屋敷(家)を屋敷(屋舗)番号順に綴(つづ)る。〇〇番屋敷、〇〇番戸、〇〇番邸、〇〇番地所などがこれである。
  • 附籍者を記載する。壬申戸籍は後の戸籍とは異なり、同じ家に同居している全員を一つの戸籍に記載したため、非血縁の者や苗字の異なる者も同一の戸籍に記載された。彼らを「附籍者」という。附籍者のなかには「華族や士族に雇われていて、主家に同居している者」や「養育のため他家の厄介になっている者」などがいた。附籍者は他家の厄介になっていても戸主としての地位を保つことができ、その家族も他家に附籍していた。附籍は明治31(1898)年の旧民法で廃止され、苗字が異なる者は同一の戸籍に入ることは許されなくなり、新たに一家の戸籍を作製することになった。
  • 戸籍には戸主、直系尊属、戸主の配偶者、直系卑属、直系姻族(妻の親など)、兄弟姉妹、傍系親族(兄弟姉妹の子や孫)という順番で世帯の総人数を登録する。
  • 妾を記載する。江戸時代、武士は家の跡を継がせる男子をもうけるため公認で妾を作ったが、庶民は公的には許されていなかった。しかし、現実には富裕層の庶民も密かに妾を持っていた。武士は妾の子供に家督を継がせることを嫌い、妻の子供が生まれるまで届出をためらったり、年齢に関係なく、妾の子を妻の子の弟としたが、庶民は妾や下女が産んだ子供を公然とは差別できなかった。それは庶民の蓄妾自体が非公認だったからである。明治3(1870)年の布告では親族の範囲を五等親までとし、妾は妻と同じく夫からみると二等親とされた。同4(1871)年には妾が産んだ子は戸籍上、「次男妾腹誰それ」と記載することが定められ、同7(1874)年には妾が間男を作った場合、姦通罪が適用されることになった。同8(1875)年に妾は戸籍上、妻と同様に扱うとされ、妾の産んだ子は妻の子と同じく、父の認知を必要としない公生子とされた。公認の妾制度は明治15(1882)年に廃止となり、以後、妾が産んだ子は非嫡出子として扱われ、女性側から父親に対して認知を求めることはできないとされた。
  • 戸籍に記載されている者の年齢、戸主との続柄、婚姻、離婚、縁組、離縁などを記し、さらに行政の警察的要請から族称、家の職業、宗旨の菩提寺、氏神、犯罪歴、戸主の印鑑を記入する。地域によっては田畑の面積や牛馬の数、死因なども書き加えられている。


 この戸籍法に基く壬申戸籍は明治5(1872)年2月1日から作製が開始され、明治19(1886)年10月15日までに編製が終了しました。


明治初期の身分法

 この壬申戸籍の前後に明治政府は、近代国家にふさわしい身分法を整備するため、次のような法律を単発で次々と布告しました。時系列にそって箇条書きにすると次のようになります。

  • 華族、士族、平民など、族称に関わらず自由に婚姻して良い。
  • 外国人との婚姻も自由である。
  • 合家が認められた。合家とは家の当主が死亡し、相続する者が幼少や婦女子で一家を維持することが困難な場合、本家と分家関係、親族関係にある家に限り、他の家と戸籍上合家して同一の戸籍の中に二つの家族が同居することが認められた制度である。これは主に士族が利用し、合家した後も士族に対する年金などは両家に支給された。しかし、合家制度は明治9(1876)年には廃止されました。
  • 婚姻は戸籍に登録しなければ効力を生じない。
  • 妻が離婚を申し出ても夫が同意しない場合は、妻の父、あるいは兄弟、親戚が妻に付き添い、裁判所に離婚を訴えることができる。
  • 妻や妾の地位にない婦女が生んだ子供は私生子とし、その婦女が引き受けるものとし、強制認知(子や母親が父親に認知を求めること)は認められない。
  • 僧侶、尼僧の肉食、妻帯、蓄髪は自由である。
  • 華族や士族の家督相続にさいしては、総領相続(通常は長男子の単独相続)を原則とする。
  • 女戸主を認める。
  • 祖先以来の苗字が不分明の者は、新たに苗字をつけることができる。
  • 分家を認める。
  • 廃家を認める。廃家(はいか・はいけ)とは、分家した家を廃して、元の戸籍に復帰することです。
  • 単身戸主が死亡、または除籍してから満6ヵ月以内に親族が跡相続を届けないときは絶家(ぜっけ)とする。
  • 縁女を記載する。縁女とは、ある家の男子と将来結婚させる予定の幼女をいう。俗にいう「いいなづけ」である。婚姻予定の男子が養子の場合、その養子が養親と離縁して復籍すると、縁女も離縁届を提出して実家の戸籍に戻された。この制度は明治31(1898)年に廃止されたが、その際に縁女から養女に変更された者もいた。

 これらは明治31(1898)年に制定された明治旧民法の施行まで実施されました。



壬申戸籍の屋敷番号の付け方

 明治4(1871)年の戸籍法の第七則には「区内の順序を明らかにするは番号を用ゆべし。ゆえに毎区に官私の差別なく臣民一般番号を定め、その住所を記すに何番屋敷と記し編製の順序もその番号を以て定まるを要す」とあります。これが屋敷(家舗)番号といわれるものです。

 この屋敷番号の直後に壬申地券の発行にともなって土地には地所番号がふられました。そのため明治初期には、一つの土地に地所番号とそこに建つ家の屋敷番号が両立する状態が生じたのです。

 この屋敷番号の振り方については村ごとに異なっていたともいわれていますが、史料自体が少なく、研究が進んでいません。そんななかで東京都板橋区の教育委員会には浦和県庁が指示した貴重な御触書が残されています。そこには次のように書かれています。

 戸籍が改正されたので、区内地所番号を以下のように心得て、一宿一村ごとに早急に定められたい。番数が定まらないと、東京、その他の管下へ出稼ぎ、旅行、奉公などに出る者が「鑑札」を願い出るにも差し支えるので、会所、世話役は村役人に指図して、早急に番数を定めるよう取り計られたい。ついては別紙に番数制をするための絵図面を添えてこの旨を伝達する。


一 村ごとに県庁の方から、一番屋敷と定め、それより順に番数を打ち、番数を記した杭(くい)を打ち立てること。

 もっとも宿駅そのほか、家並みが続いている場所は杭にかえて番札の軒下の柱へ打ちつけること。

一 番数は屋敷地で一人が持っている一か所の土地について一つの番数を定めること。

一 田畑は番号を打つには及ばないこと。

一 寺社は境内だけをもって、一つの番号を定めること。


 屋敷番号の起点に関しては、このように県庁側を起点とした例、神社を起点とした例、戸長を起点とした例、地所番号をそのまま用いた例(地所番号の起点は江戸時代の絵図作成のさいの慣習に従い、東を起点としていることが多い)などが確認されています。いずれの場合も道路や川沿いにそって一筆書きの要領で付けられ、起点と終点がほぼ同じ場所になることもありました。

 明治31(1898)年の戸籍法により屋敷番号は廃止され、本籍地には地所番号が用いられることになりました。



壬申戸籍と徴兵令

 明治政府は明治6(1873)年に徴兵令を出して軍隊を創設しました。明治4(1871)年に戸籍法が公布されたのは、この徴兵令の布石だったのです。明治5(1872)年の壬申戸籍は国民の居住地と家族構成を明らかにするものでしたから、徴兵の基本台帳として利用されました。男子は満20歳になると本籍地において徴兵検査を受けることが義務付けられましたが、次の者は免役とされました。


  • 一家の主人たる者
  • 嗣子(家の跡継ぎ)並びに承祖の孫(祖父の家督を継ぐ孫)、ただし養子約束のみでいまだ実家にいる者はその限りではない。


 この免役条項が一般に広まると、戸主は息子たちを兵役から逃れさせるために競って分家や絶家再興、養子縁組の届出を出し、実際は実家に同居しているにもかかわらず、戸籍上だけ他家の戸主となった者が続出したのです。

 そして明治10(1877)年に西南戦争が起こると、国民の兵役逃れは加速度的に増加したため、政府は分家を規制する動きに出ました。次の要件を満たした者に分家を限ったのです。


  • 相当の財産があって独立して生計を維持することが可能である。
  • 別居していること。
  • 戸主として一定の年齢に達していること。

 それでも兵役逃れは減らず、兵士不足に悩まされた政府は明治11(1878)年、出生から除隊する数え23歳までの者の分家を全面的に禁止しました。さらに「実際を調査し、真に気の毒な者は猶予するが、戸主といえども徴集する」という通達がなされ、兵役を逃れる目的のために養子縁組をする「兵隊養子」も厳しく取り締まられました。

 ちなみに北海道は開拓が優先されたため、明治31(1898)年になってやっと全道で徴兵検査が実施されるようになりました。夏目漱石も明治25(1892)年に生涯一度も訪れたことのない岩内町に本籍地を移動していますが、これは徴兵逃れと考えられています。