北の大地を拓いたサムライたちの物語
第1回 亘理伊達家と伊達市
苦悩する伊達邦成
「孤正、群邪に勝たずか」
仙台藩一門筆頭、亘理領主伊達邦成は天を仰いで嘆息した。
藩主伊達慶邦の命令で会津藩を追討すべく、山形県湯ノ原に滞陣してから70余日。800名の家臣に囲まれた邦成の本陣に、仙台からの使者が駆け込んで来たのだ。
その言上によると、仙台藩は東北諸藩と同盟を組み、官軍と抗戦することに決したという。
藩内で勤王思想を唱えてきた邦成は、これを聞いてにわかに顔色を曇らせた。さっそく藩主に建白書を送り、道を誤るなかれと訴えたが、すでに傾いた藩論はどうすることも出来ず、一旦帰陣の上、今度は相馬口の官軍と戦うべしという厳命を反対に命じられてしまう。
彼にとってこれは不本意なことであった。しかし逆らうことは許されない。彼は苦悩しながらも官軍と戦い、皮肉にもその善戦ぶりから「細谷烏(ゲリラ部隊)と安房(邦成)さえなくば、青葉の城もひとつぶし」と歌われてしまう。
こうして彼の罪悪感は益々深まってゆき、ついにある日、ひそかに家臣鷲田右源太らを官軍本営に送り、ただいまの反抗は決して我の本意にあらず、一週間の休戦を許可していただければ、必ずや藩内の佐幕派を説得し、朝命に従わせてみせますと申し出たのである。
しかし間なく列藩同盟は崩れ去り、仙台藩の佐幕派もさすがに刀を納めて謝罪降伏した。
戦後、仙台藩は城地62万石を召上げられ、藩主慶邦父子は謹慎、のちに慶邦の実子亀三郎宗基をもって仙台城下28万石を新規に賜り、邦成はその勤王思想を評価されて後見役を拝命した。
断じて刀は捨てぬ
一方、邦成自身も亘理領2万4350石を僅か58石5斗に大削減され、その旧領は盛岡藩の支配下に渡された。このため亘理の家臣1362戸、男女7854人は生活の基盤を失ってしまう。仙台藩は亘理侍を旧領地に帰農させようとしたが、彼らはこれに猛反発する。
「我々は卑賎の陪臣(家臣の家臣)と言えども、累代武門の班に入り武士道を嗜み来たりたるに、いまさら刀剣をなげうって農籍に列することは、武門の恥辱これより甚(はなは)だしきはなし」というのだ。
亘理侍は路頭に迷い、餓死するかも知れないことを承知の上で、武士の誇りにこだわり続けた。このありさまを見て、旧主邦成と家老の田村顕允は苦悩する。
そうして二人は最後に北海道移住を計画した。君臣あげて北辺に移り住み第二の亘理をつくろうというのだ。さっそく田村は準備に移る。参議広沢真臣ら政府の要人に会い、北辺開拓の先駆となって朝敵の汚名をそそぎたいと哀願し、明治2年(1869)8月25日には胆振国のうち有珠郡の支配権を得た。
君臣皆屍をさらす覚悟
邦成は急ぎ支配地を踏査。亘理に戻ると祖先の霊前に家臣を集め、興奮で声をふるわせながら北海道移住の決意を述べた。
明治3年(1870)3月29日には第1回の移住者220余人が松島湾の寒風沢港から官船長鯨丸に乗船。4月6日、室蘭に到着する。一行は徒歩、あるいは馬やアイヌに背負われて現在の伊達市に移住した。同年7月には第2回移住者72人も入植に成功。さらに大規模な移住を計画した田村顕允は邦成に進言する。
「万一、事の成らない時は、君臣みな枕を並べて、屍を北海の山野にさらす覚悟。主君自ら家族をともなって移住し、範(はん)を旧臣に示して断固たる決意を表明して下さい」と。
同意した邦成は明治4年(1871)年2月7日、第3回の移住者788人を引率して渡道した。こうして亘理侍の移住は合計9回も行われた。
白鳥事件と柴田主従の移住
戊辰戦争の時、仙台藩一家柴田意広は手勢320人を率いて秋田藩を攻撃。角間川の激戦では大勝利を得、仙台に凱旋した。そんな彼のもとに白鳥事件の連絡が届く。彼は愕然として肩を落とした。
意広の領地柴田郡船岡(現在の柴田町船岡)の大鷹宮は古来白鳥を尊霊とし、その付近では白鳥の殺傷を固く厳禁していた。しかし明治元年(1868)10月、この地に駐屯した官軍の広島藩士は、戯れに白鳥狩りを行い数羽を射止めた。これを見た意広の家臣森玉蔵らは怒り、所持していた銃を放って一人を射殺してしまう。広島藩側はこれを許さず。さっそく森らの処刑を迫ったが、犯人の森は護送中に脱走してしまい、結局主人の意広が責任をとる事になる。11月4日、意広は「臣どもがなせしわざをも白真弓ひきてやかへる武夫の道」という辞世を遺して切腹した。享年30。その嗣子意成は僅かに3歳。
仙台藩の減封で柴田家も没落し、家老の大和田三郎兵衛は亘理伊達家の協力を得て現在の伊達市に集団移住した。明治3年(1870)から同5年(1872)にかけて124人が入植している。
第2回 岩出山伊達家と当別町
吾妻謙暗殺計画
岩出山伊達家の当別移住を描いた本庄陸男の作品『石狩川』にこんな一節がある。
「阿賀妻(吾妻)に対する反対というのは、これは、北海道へ移住することを拒否することである。そのためにはどうしても、阿賀妻と主君とを切りはなさなければならない」
明治4年(1871)9月、第1回移住を成功させた旧家老吾妻謙(28歳)と旧主伊達邦直(38歳)は、半年ぶりに郷里岩出山を訪れた。第2回の移住者を募るためである。しかし岩出山に残留した家臣達の反応は決して好意的ではなかった。それどころか露骨に不満を口にする連中もいた。
「吾妻は絶対に許せぬ。主君邦直様を未開の荒野に住まわせるなどもっての外だ。臣下の道ではない。我ら家中を欺(あざむ)く悪臣だ」
と。怒りは爆発する。
岩出山の八幡社に集合した面々は、近々上京する吾妻を途中で暗殺する計画をたてた。しかしこの企ては失敗した。危険を感じた吾妻が、途中で道を変えてしまったからである。維新後、多くの仙台藩一門家中が北海道移住を実行したが、岩出山家中ほど内部で激しく分裂したものはなかった。
そもそも岩出山伊達家は仙台藩祖政宗の4男三河守宗泰に始まる。歴代、玉造郡岩出山1万4.640石を領し、その10代目当主が邦直である。天保5年(1834)に生まれ、19歳で家督を相続、弟の邦成は亘理伊達家を継いでいる。戊辰戦争の時、邦直は秋田、新庄藩と戦い、仙台藩降伏後はわずか65石に減石されてしまった。同時に家臣736戸、3.700余人は仙台藩の命令で全員旧領地に帰農することになる。
邦直、北海道に旅立つ
ただちに邦直は嘆願書を提出した。
「岩出山家臣のうち士分の者273人は、先祖宗泰公に従って仙台本藩から来たものです。いずれも特別の由緒功労があり、到底帰農させることは出来ない。是非とも扶持米を支給してほしい」
しかしこれは却下された。そこで邦直は明治2年(1869)9月1日、岩出山館内に家臣一同を集めると、弟邦成の亘理家中と同じく、北海道移住によって道を開くと宣言した。
吾妻謙を開拓主事に任命し、準備を行わせると同時に、志願書を中央政府へ提出した。間もなく、「石狩国札幌郡空知郡ノ内」という曖昧な支配地許可を受け取る。ところがこれを調査してみると、海湾から遠く、開拓には適さない土地だと思われた。そこで邦直は吾妻を上京させ、支配地の変更または増加を政府に再度請願。このとき渋る政府に食い下がった吾妻は、仙台藩の誤解を招き、謹慎を申し渡されてしまった。
一方、邦直は3年(1870)3月、重臣らを連れて北海道視察の旅に出発する。小樽で開拓判官岩村通俊と会い、支配地を詳しく説明された。
岩出山主従の当別移住
支配地の奈井江(現在の奈井江町)に到着た邦直は落胆した。やはり輸送の便が悪く、乏しい資金ではとても開拓する見込みがない。また水害の心配もある。邦直は帰路の函館で再度支配地の変更を嘆願、厚田場所聚富(現在の厚田村聚富)の借用だけが認められた。
ここも優良ではなかったが、もう躊躇(ちゅうちょ)は許されない。4年(1871)3月、邦直は第1回移住者43戸、160人を率いて聚富に入植する。
その後まもなく当別川流域に未開の肥沃地があると知り、さっそく調査してみると、悪くない。邦直は当別開拓に希望をいだいた。しかしそれには人数が要る。邦直と吾妻は急ぎ帰国し、第2回の移住者を募った。ところが冒頭の事件でもわかるとおり参加者は少なかった。それでも41戸、188人を集め、5年(1872)4月には全員を連れて当別に再移住した。
石狩川の主人公吾妻謙
本庄陸男の代表作『石狩川』の主人公吾妻謙(作中では阿賀妻)は弘化元年(1844)岩出山伊達家臣吾妻五左衛門益延の子として生まれた。幼くして父を失い、13歳で仙台藩校養賢堂に入学。抜群の成績で周囲を驚かせ、若冠23歳で家老職に抜擢される。
岩出山伊達家の没落後は、邦直の厚い信任のもとで北海道移住を計画実行し、半年間の謹慎生活や暗殺などの試練を乗り越えて当別移住を成功させた。
明治12年(1879)に岩出山からの第3回移住者が当別に入植したあとの話だと思われるが、こんな逸話がのこっている。
当時、移住者はひどい貧乏生活を続けていたので、付近の住民から蔑(さげす)まれていた。あるとき吾妻が屯田兵村を通ると、
「当別の乞食侍」
と罵(ののし)られ、糞(くそ)を投げつけられた。
このとき吾妻は、
「なにをする。このゲスどもめ!」
と怒鳴ったが、その威厳に驚いて連中は地べたに土下座してしまったという。
明治22年(1889)5月18日、吾妻が没した日の邦直の日記には「吾妻謙死す。悲観す。」と書かれている。
その2年後に邦直も没した。
第3回 片倉家臣と北海道移住
片倉主従、登別市を拓く
敗軍の将兵ほど哀れなものはない。仙台藩の降伏後、白石城下に乗り込んできた岡山藩士は、刀を振りかざして叫んだ。
「官軍に抵抗したおまえ達は切腹、獄門になるところだが、一命だけは助けてやる。感謝しろ」
白石侍は唇を噛み締め、じっと屈辱に耐えた。
明治元年(1868)12月、仙台藩一家片倉邦憲の領地1万8.000石は盛岡藩に渡され、その家臣1.406戸、7.499人は士籍を失う。
奥州屈指の名将といわれた片倉小十郎景綱の11世の孫邦憲は、家臣の悲嘆を見るに忍びず、重臣らに命じて士族復籍を中央政府に哀願させた。嘆願書のなかで邦憲はいう「士道一途に相嗜み居候者ども、一旦農商に混じ、到底生活の見通し更にこれなく、誠に以って見聞に忍びず」と。
そして2年(1869)9月、胆振国幌別郡(現在の登別市)の支配権を賜り、家臣達を移住させることが許可された。当時北海道へ移住すれば士籍を剥奪されなかったのである。邦憲はさっそく世子景範らに支配地の踏査を命じ、3年(1870)6月25日には第1陣の移住者21戸と職人13人を幌別郡に送った。翌年にも45戸、職人15人を移住させる。彼らは相前後して渡道した邦憲の世子景範と孫景光を中心に固く団結し、登別市の基礎を造りあげたのである。
移住当初の5年(1872)2月、札幌と函館間を結ぶ札幌新道工事が着手された。そのとき経理係を勤めていた旧会津藩士が白石侍の貧しい食事風景を見て進言する。
「毎日残飯が出て困る。失礼だが差し上げたい」
すると彼らは、
「残飯の恵みを受けるようなさもしさはない」
と、白石侍の意地を通した。
咸臨丸、暗礁に激突
白石残留の移住希望者600名は登別第二陣出発の翌日、開拓使の資金援助を受ける保護移民、即ち開拓使貫属となり、片倉家の支配を離れた。
明治3年(1870)9月7日、22歳の旧家老佐藤孝郷に率いられた第一陣398人は白石を出発。寒風沢港から咸臨丸に乗船した。続いて第二陣206人も出発する。
第一陣を乗せた咸臨丸は20日の夕刻、石狩を目指して函館を出帆。途中から大雨が降りだし、そのうえ外人船長が酒を飲んで航路を見失ったため、現在の北斗市茂辺地付近の沿岸で暗礁に激突してしまった。たちまちバリバリと船底は裂け、その隙間から海水が流れ込んでくる。深夜で眠っていた人々は、恐怖でパニック状態に陥った。
一行の三木勉(旧家老 34歳)は甲板に出て叫んだ。
「私が助け船を探しに行こう。もし幸いに岸までたどり着いたら、一番先に私の老母を避難させてくれ」
そう叫ぶと、三木は荒れ狂う海にザブンと飛び込んだ。
やがて陸地でもこの異変に気づき、救助船を出す。
佐藤は急ぎ下船の準備を行い、乗船した順番で下船するよう指示した。
座礁船中の対立
しかし斎藤新平(旧武頭)と湯村雄也(三木の末弟 18歳)は老幼婦女を優先すべきと主張して譲らず、口論となった。両者は刀の柄に手を懸け、一瞬緊迫した空気が船内を包んだが、結局斎藤らの意見が通り、離船を開始した。
面白くない佐藤は途中でサッサと船を離れ、けっきょく三木の次弟菅野格(旧中小姓 32歳)が傾いてゆく船内に最後まで残り、くまなく点検を済ませてから下船した。
全員無事に上陸すると、陸路を函館まで戻り、そこに停泊中の第二陣運搬船庚午丸に再度乗船。小樽に到着すると、今度は徒歩で石狩漁場に向かう。開拓使は冬季間の石狩滞在を命じたが、佐藤は札幌最月寒への入植を敢行した。
11月、開拓判官岩村通俊が視察に訪れ、
「諸君らの郷里の名をとって白石村(現在の札幌市白石区白石)と呼ぶように」
と、進言した。
手稲に移住したグル-プ
咸臨丸座礁の時、海中に飛び込んだ三木勉と船中で佐藤と対立した弟の菅野格、湯村雄也らのグル-プは、その後も佐藤とシックリいかなかった。そこで明治5年(1872)2月、開拓使が白石移民の一部を発寒村(現在の札幌市手稲区手稲)に分離移住させるようにと通達した時、三木らのグル-プ54戸、男女241名がこれに従い、佐藤のもとを去った。
16日、三木らの一行は仮住まいしていた石狩漁場を出発。積雪を踏み越えて銭函に一泊し、翌日には右手に手稲山を仰ぎながら鬱蒼(うっそう)たる山麓を進んだ。発寒村の付近まできた時、一斉に鶴の群れが舞い上がった。
「鶴だ!」
その声で皆が見あげると、鶴の丹紅が目に染みいるほど美しかったという。
昔から鶴の住む場所は縁起の良い土地だといわれる。彼らは希望に胸をはずませて入植を終えた。
彼らはさっそく入植地を発寒村から独立させ、手稲村と命名した。語源はアイヌ語の
「テイネテ」である。間もなく白石侍の開拓使貫属は免ぜられ、全員平民籍に編入されたが、後年、士籍に復した。
第4回 角田石川家臣と北海道移住
室蘭先発隊の悲劇
明治3年(1870)4月、室蘭に移住した角田領主石川邦光の家臣44戸、51人は見捨てられてしまった。
後続の第二陣に参加するはずだった300余人が「未開の原野に骨を埋めるよりは、故郷で帰農したほうがましだ」と言い出し、管轄の角田県庁に強訴したのである。
北海道移住に積極的だった邦光は、努めて彼らを説得したが、従う者はなかった。このため邦光の室蘭郡支配は免ぜられ、取り残された第一陣は、隣郡有珠郡の伊達邦成と幌別郡の片倉景範に分割支配されてしまう。
一方、室蘭の人々はこれを知って驚いた。第二陣の到着を心待ちにしていた彼らは、気力も失せ果て、疲労も極限に達し、途端に望郷の念が込み上げてくる。脱走する者も出始めた。旧家老の泉忠広は、移住団の崩壊を憂慮して一同を説得する。
「我らがこの地に来たのは、天命である。北の先達となって国に報いるためである。諸君等、ここを去って国に何の面目があるか。私は老いたりとはいえ断然、室蘭に留どまって初心を貫くのみ」
また和歌を一首、詠じた。
「浪の音もまたき夜な夜な聞きなれて見る故郷の夢にさわらす」と。
これによって一同は、改めて室蘭永住を誓いあったという。
この泉靖七郎忠広(潔雄)は文政10年(1827)仙台藩一門伊具郡角田2万3.382石領主石川氏の家老家に生まれた。
仙台藩の所領減封後は、角田家臣1.356戸、7.000余人の処遇に苦しみ、主君邦光と相談して北海道開拓に着手、室蘭郡の支配許可後は最初に入植を実行した。
泉麟太郎の活躍
忠広を助けて開拓に尽くした養子麟太郎は、石川家重臣添田保の四男に生まれた。22歳の時、忠広の養子に迎えられ、明治2年(1869)11月には主君邦光らと室蘭郡支配地を踏査。帰国後は開拓助監を命じられ、第一陣移住者を募集すると、翌年4月、43戸を率いて室蘭に移住した。時に29歳である。まもなく箱館戦争で活躍した開拓大主典黒沢正吉(伝之丞)が訪れ、室蘭郡の境を定めた時、立ち会ったのも麟太郎だった。第二陣の瓦解後は広東米のお粥をすすり、海水の汁を飲むという飢餓状態を脱するために、壮者10名を連れて札幌に向かい、麟太郎自ら土方や行商をして貧窮者救済の資金を作った。
明治4年(1871)、角田家臣の士籍が剥奪され、民籍に編入されてしまうと、麟太郎は新たな精神的支柱として若冠12歳の石川光親(旧主邦光の弟)を室蘭に迎え、移住団を激励する。6年(1873)には養父忠広が室蘭外二村副戸長に選ばれ、続いて14年(1881)2月、麟太郎は郷里角田に戻って61戸、211人の移住者を募集、室蘭へ入植させることに成功した。
第三の故郷 阿野呂原野
明治18年(1885)、角田家臣団は念願の士族に復籍したが、そろそろ室蘭開拓にも限界が見えはじめた。
もともと室蘭は土地が狭く、決して豊かな収穫が期待できる場所ではない。そこで麟太郎は郡長古川浩平の助言により空知支庁栗山町阿野呂原野の開発に乗り出した。
時に麟太郎は47歳。約140万坪の払い下げを受けると、夕張開墾起業組合を結成。社長の麟太郎は21年(1888)5月、2人の青年を連れて阿野呂原野調査に出発した。ここでも麟太郎は不屈の精神力で開拓に臨み、23年(1890)には一村を起こすまでに発展した。これが「角田村」(現在の栗山町角田)である。命名の時、麟太郎は次ぎの歌を詠んだという。
「戊達の役後藩論に抗し
剣を横たえ鋤をになって北門に移る
二十余年一日のごとし
如今新設す角田村」
昭和4年(1929)に88歳で没した。
室蘭に生涯を捧げた添田竜吉
添田竜吉常勝は天保九年(1838)石川家臣添田保の三男に生まれた。兄達が早世したため家督を相続し、弟麟太郎は家老泉忠広の養子となる。元服後は表奥小姓、仙台留守居添役、目附佐役などを勤め、戊辰戦争の時は近習小隊司令士となり、大雨の降る中、石川家臣800人を率いて白川に出陣した。
敗戦後は弟麟太郎と共に室蘭へ移住し、何事にも積極的だった竜吉は、すぐ製塩事業に着手、次いで鹿皮販売、漁網製造、鋳物製造などを手がけ、中でも「輪西氷」は大成功を収めた。これは天然結氷させた川水氷を毎年約700トンほど生産し、大阪市場で販売したものである。またその収益で牧場を経営、養蚕やでんぷん製造なども試みた。弟麟太郎が阿野呂原野に移った後も、室蘭に留どまり、大正2年(1913)、76歳で没する。
移住の時、竜吉が持参した陣太刀、脇差、槍、火縄銃、陣羽織、具足、旗差物などは昭和47年(1972)、室蘭市民俗文化財に指定され、「仙台角田藩添田家資料」と呼ばれている。ちなみに元衆議院議長の横路孝弘氏は、添田家の一族である。
第5回 会津藩士の余市開拓
会津藩士 北の流民となる
慶応4年(1868)1月に起きた鳥羽伏見の戦いから、明治元年(1868)9月22日の鶴ケ城落城までの9ケ月間、会津藩士は実に100回以上の戦闘を繰り返し、2.977名の戦死者と城下の大半を焼失した。
戦後、朝敵逆賊という汚名を着せられた彼らは、東京その他で謹慎生活を命じられ、失意の日々を送る。
ある日、そんな彼らのもとに管轄の兵部省から、
「藩主の罪を幾分なりとも償いたいのなら、率先して蝦夷地の開拓に従事せよ」
という告示が伝えられた。
藩主の松平容保父子が東京の池田屋敷で処分を待っていた時である。会津藩士はその罪が少しでも軽くなればという一心で、この移住計画に同意した。
明治2年(1869)9月10日、兵部省の係員に引率された藩士一行444名は、東京の品川に停泊していたアメリカ船ヤンシ-号に乗船。航海中はひどいシケに何度も遭い、幾日も食事を取らずに小樽港へ上陸した。続いて第二陣90数戸も到着、小樽での仮住まいがはじまる。
間もなく彼らのもとに朗報が届けられた。藩主容保の嗣子容大をもって家名の再興が認められ、新たに青森県下3万石(実高は7.000石)を賜り、斗南藩を立てることが許されたのである。
兵部省の管轄移民として、小樽に連れてこられた彼らは、その施策に期待していたが、翌年春には斗南藩の扶助を仰ぐべしという通達が下され、ひどく困惑する。
なぜなら、斗南藩自体も、青森で餓死者を出すほどの困窮に喘(あえ)いでいたからである。
保護移民として余市に定住
北の蛮野で見捨てられた彼らは、藁にもすがる思いで樺太移住を検討する。当時新設された樺太開拓使が移民の募集で苦慮していることを聞いたからである。さっそく彼らは血判連著の御受書を樺太開拓使に提出し、受理された。
一方、会津藩士の受け入れ準備に着手した樺太側は、とりあえず彼らを小樽近郊の余市川下流に収容、待機させる。
ところが、その樺太開拓使も明治4年(1929)には北海道開拓使に併合され、再び宙に浮いた彼らは、改めて開拓使に哀願、その保護移民扱いとなって余市に定住することが決定した。遠く樺太まで行く覚悟をしていた彼らにとって、これは夢のような吉報であった。
実に会津落城から2年10ケ月、ここに安住の地を得たのである。
彼らは入植地に、黒川、山田村という名を付けた。黒川村は援助を惜しまなかった開拓次官黒田清隆と、移住団代表宗川茂友の苦労に報いたもので、山田村は黒田と開拓使監事大山荘太郎の尽力を記念して名付たものだ。彼らは余市でリンゴを栽培し、見事成功する。
生きていた戦死者
会津戦争の時、飯盛山で自害した白虎二番士中隊の悲劇は有名だが、余市黒川村の佐藤駒之進信明はその半隊頭(分隊長)を務めた人物だった。
駒之進は会津藩士佐藤左膳(100石)の子に生まれ、33歳の時、16、7歳の少年兵で編成された白虎二番士中隊の半隊頭を拝命する。会津戦争では戸ノ口原の前線を転戦し、日向内記隊長が食糧を求めて姿を消したあと、嚮導篠田儀三郎と共に白虎隊を指揮して退却。その途中、篠田らとはぐれてしまい、大人の将校を失った少年兵らは飯盛山で集団自害を遂げる。これを知った駒之進は姿を隠し、そのため会津藩の戦死者名簿にもその名前が記載された。ところが駒之進は、ひそかに余市へ移住していたのである。
彼は多くを語ることなく、明治43年(1910)、余市でひっそりと亡くなった。享年75。
根室にあった主戦派家老の墓
会津藩の降伏に最後まで反対した青年家老の梶原平馬景武(維新後は景雄と改名)は、明治初年にプッツリと消息を絶ち、謎の人物といわれてきたが、近ごろ根室市の耕雲寺で墓が発見された。
平馬は天保13年(1842)に会津藩家老内藤信頼(2.300石)の次男に生まれ、幼くして梶原家(1.000石)を相続、藩内きっての貴公子であった。慶応2年(1866)には25歳の若さで家老に抜擢され、外交方を務める。
イギリス大使館書記官ア-ネスト・サトウは平馬の印象を「色の白い顔立ちの格別立派な青年で、行儀作法も申し分なかった』と伝えている。会津戦争では横浜のスネルから武器弾薬を購入、新潟港経由で会津に運ぶ。奥羽越列藩同盟も平馬の活躍で成立したものである。
敗戦後は東京に幽閉されたが、藩主容保の助命嘆願に奔走し、赦免後は青森県庶務課に出仕した。ところが間もなく妻と離婚し、息子の景清を連れて函館に渡り、以後全く行方を絶った。
根室の墓石には明治22年(1889)3月24日没とある。
第6回 庄内藩士と北海道移住
薩摩藩邸焼討ち事件
慶応3年(1870)12月25日の早暁。
江戸三田にある薩摩藩邸を襲撃した庄内藩兵らは、決死の白装束姿で抵抗する薩摩藩士らを次々と斬り伏せ、約2時間半の戦闘で完全に殲滅した。薩摩藩側の死者51名、捕虜は162名にのぼる。この事件を契機に庄内藩と薩摩藩の関係は決定的に悪化し、幕府は鳥羽伏見戦争へと突入してゆく。
そもそもこの焼討ちは、西郷隆盛の陰謀で組織された「薩摩御用党」が、江戸市中で働いた乱暴狼藉に対する報復であった。市民を混乱の坩堝に陥れ、幕府を挑発して倒幕開戦の口実をつくる。そのためには手段を選ばなかった「薩摩御用党」。江戸の市民が蒙った被害を思うと、実に西郷らしくない卑劣な謀略であった。
間もなく戊辰戦争が始まると、軍備の充実を計りながら抗戦態勢を整えた庄内藩は、天童に進駐中の薩長藩兵を攻撃。精強の誉れ高い庄内軍は、最上川を渡って山形藩兵を破り、次いで天童城を攻略、更に長瀞藩兵を退けて新庄城に迫ったが、そこで激しい反撃に遭い、戦線は膠着した。
一方、庄内藩の支城亀カ崎城代朝岡主殿は、酒田(現在の酒田市)在住の亀カ崎足軽200人をもって戦闘4部隊を編成、さらに酒田周辺の鵜殿川原農兵と新田目農兵を調練して大砲3部隊を組織した。これらの部隊は奥羽列藩同盟に背信した秋田藩討伐に出陣。破竹の勢いで進撃を続け、久保田城下に肉薄することわずか12キロの椿台に迫ったが、そのとき庄内領危うしの連絡が入り、急遽退陣を余儀なくされた。この椿台の戦闘は庄内戊辰戦争史上最大の激戦地といわれている。
亀カ崎足軽らの北海道移住
明治元年(1868)9月、盟友の会津藩と盛岡藩が敗退、孤立した庄内藩も23日には降伏謝罪した。藩主酒井忠篤は謹慎、所領16万7.000石は没収となり、弟忠宝が家名を相続して新規12万石を下賜されたが、同時に荒廃した会津若松への移封命令が下る。このとき最上旧臣の流れをくむ亀カ崎足軽は、戦国時代以来定住してきた酒田を離れるより、武士を捨てて帰農する道を選んだ。しかし酒田は農地が狭く、全員帰農は不可能である。
ちょうどそのころ札幌本府経営を積極的に進めていた開拓使が小貫直和権大主典らを酒田に派遣、移民を募集していたので、帰農する土地のない亀カ崎足軽と、秋田藩戦争で活躍した鵜殿川原農兵、新田目農兵らは相次いで応募した。
福井、愛媛県人らと一緒に酒田港を出発した一行36戸は、明治3年(1870)4月6日、小樽に到着。開拓使の保護移民となって庚午一ノ村(現在の札幌市東区苗穂)に入植した。さらに第二陣の30戸は庚午二ノ村(現在の同市東区丘珠)、第三陣30戸は庚午三ノ村(現在の同市中央区円山)に移住した。
現在、札幌市歴史資料館には丘珠に入植した農兵が秋田戦争で用いたといわれる一旒の「朱の日の丸旗」が大切に保存されている。
庄内士族の木古内開拓
木古内も庄内士族の集団移住によって開かれた土地である。
明治18年(1885)6月、士族救済の目的で実施された「移住士族取扱規則」により、上磯郡木古内村(現在の木古内町)に移住した庄内士族一行105戸は、同年6月鶴岡を出発。酒田港より御用船宝徳丸に乗船し、11日には現在の木古内町字木古内の佐女川に上陸した。現在その地には「山形荘内藩士上陸の碑」が建てられている。
移住者の多くは旧藩時代の下級武士だったが、なかには100石取りの上田元良なども加わっていた。
この木古内と庄内との縁は古く、一行の移住以前から庄内藩大庄屋副役西村喜兵衛や五稜郭残党の水落与左衛門などが住居していた。
敬愛された名判官松本十郎
賊軍出身の名判官松本十郎ほどすがすがしい人物も珍しい。
天保10年(1839)庄内藩士200石、組附之外番士戸田文之助の長男に生まれた松本は、惣十郎直温と名乗る。文久3年(1863)父と共に蝦夷地の苫前、浜益陣屋に在勤。戊辰戦争では秋田口の戦闘に参加し、降伏後はひそかに京都へ赴いて藩主の減刑を嘆願したが、賊軍将兵の入京が禁じられていたため松本十郎と変名して潜入した。政府の要人に号泣して藩情を訴陳した十郎は、黒田清隆の知遇を得、明治2年(1869)には開拓判官に任官。根室在勤となる。
根室では税制を簡便にし、牢獄、病院、学校を建設。6年(1873)には札幌本庁主任大判官に栄転した。しかし八年(1875)、樺太アイヌ問題で黒田と対立、終始アイヌを弁護した十郎は、職を辞して庄内に帰った。
旅行中、アイヌ服(あつし)を常用した十郎は「アツシ判官」と呼ばれ、また十勝川氾濫の時、裸で対岸に泳ぎ渡り「裸判官」とも呼ばれた。
その人柄は清廉にして謙虚。アイヌ民族に対しても礼を尽くし、深く敬愛される名判官だった。大正5年(1872)に没した。
第7回 盛岡藩の移民
父をたずねて渡道
天保12年(1841)盛岡藩士中村甚四郎の二男に生まれた万平は、同藩士上田岩蔵の養子となり、15歳の時、南部藩室蘭陣屋の同心(下級役人)を命じられて、1年間を蝦夷地で過ごした。
当時、実父の中村甚四郎も箱館陣屋同心を勤めていたが、安政5年(1858)に帰国する時、泥酔して藩船に乗り遅れ、厳罰に処されることを恐れてそのまま行方をくらますという事件が起こった。
このため中村家は取り潰され、万平は上田家の給料で両方の家族を養うことになり、貧乏のドン底に陥る。養父の岩蔵もすでに亡く、万平は甚四郎の消息を尋ねるため、蝦夷地行きを藩庁に願い出たが、許されなかった。
間もなく明治維新を迎え、盛岡藩も瓦解。日々、父の安否を心配していた万平は、何とか父を探したい一心で北海道移住を考え、その当時、開拓判官島義勇(佐賀藩士)が熱心に進めていた札幌の衛星集落造りのために、明治4年(1871)3月、貧困武士を多く抱える盛岡藩を訪れていた、開拓使役人の農業移民募集に参加することにした。
万平は実母、妻、長男、実弟善七などを伴って一行99戸。(89戸ともあり)に加わり、住みなれた盛岡の山河をあとにした。
彼らは駄馬や徒歩で宮古港まで行き、そこで船待ちのため1週間滞在する。内陸育ちの彼らにとって海は珍しく、しばし寂しさを紛らわせることができた。
3月19日夜10時頃、4隻の官船に分乗して出帆。海上では激しい暴風雨に遭い、なんとか函館に着岸した時には、船酔いのため上陸する元気はなくなっていた。
万平兄弟 父をたずね歩く
22日には余市沖を過ぎ、3月23日の正午、小樽港に到着。
移住団は月寒11戸、花畔39戸、篠路10戸、円山6戸に分かれて入植することが決定する。
万平は円山組の団長に選ばれ、庄内藩移民30戸が開いていた庚午三ノ村に入植地が割り当てられた。移住してすぐに万平は、厳しい開墾のかたわら熱心に父の消息を尋ね歩き、翌5年(1872)秋には鹿しか通らない鬱蒼(うっそう)とした山々を越えて、室蘭、白老地方を巡り歩いたが、手掛かりになるものは全くなかった。
翌年秋には弟善七が小樽、岩内、余市方面を廻り、さらに古宇郡泊村へ至る。その山奥で炭焼をしている老人を見つけた善七は、もしやと思って駆け寄ったが、4歳の時に父と別れた善七は顔を知らない。
いろいろと訊ねているうちに、老人は逃げるように姿を消してしまった。善七はその跡を幾日も追ったが、不幸にも赤痢に罹り、むなしく円山村へ帰った。
それから数十日後、突然その老人が円山村を訪れて来た。万平は老人が父ではないとすぐにわかったが、老人は父の炭焼き仲間だった。
ついに父と巡りあう
翌年の春、万平は老人から教えられた長万部に赴き、黒松内と寿都境の山中に分け入った時、ついに炭焼をしている父を見つけた。
そうして万平は泣いて再会を喜びあった父を連れて家族の待つ円山村に帰った。その後、万平兄弟は16年(1883)に74歳で父が亡くなるまで厚く孝養を尽くたという。
一方、万平と善七は円山村の開拓でも多くの功績を遺した。万平は円山村総代から村会議員となり、村民の厚い尊敬をうけて43年(1910)には、現在の札幌市大通西30丁目に「上田一徳翁之碑」という記念碑が建立された。
また大正2年(1913)には、明治初期の開拓判官で万平を信頼した松本十郎が、北海道視察の旅に出たとき、途中に万平宅を訪ねて歓談したという。
弟の善七も快活にして他人の世話をいとわない性格で、後に村会議員に選ばれて活躍した。
札幌近郊の南部移民
明治4年(1871)3月、開拓使の募集で移民した盛岡藩の武士や農民は、円山のほかにも石狩の花畔、札幌の月寒、篠路十軒などに分散移住した。このうち花畔には39戸が移住。はじめは10戸のみの予定だったが、雁来や篠路に移住する一行がこれ以上、石狩川をさかのぼるのはイヤだと団長佐藤熊太郎に文句を言い出し、付き添いの役人らと相談した結果、全員が花畔に移住することになったという。
月寒の一行44戸、185名は、岩瀬末治に率いられ、開拓使の建てた4棟の倉庫に収容される。間もなく入地を割り当てられ、以後3年間に亙って扶持米を支給された。彼らは主に炭焼をして生計を立てたため、開墾は遅々として進まず、開拓使は農業を怠る者の配給米を減らしたこともあった。
また一家で毒キノコを食べ、全員が死んでしまうという悲劇もあった。
篠路では入植地を占いで決めたという。八卦では東北が良いと出たので、彼らはアイヌ民族を先導に曲がりくねった伏籠川沿いを進み、途中休憩した篠路で定住した。
第8回 尾張勤王党と八雲町
血の粛清 青松葉事件
「国元において、ふいご党の重臣らがひそかに幕府と通じ、幼君義宜様を擁して江戸に脱走せんとしております。なにとぞ弾圧を」
早馬で駆けつけた金鉄組の吉田知行は、滞京中の第14代尾張藩主徳川慶勝に強く迫った。
慶勝は尾張の支藩、高須藩松平義建の二男に生まれた。佐幕派の会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬の兄にあたり、最後の将軍徳川慶喜のいとこでもある。御三家の筆頭としてはじめは、長州征伐総督を務めるなど幕府寄りの人物であったが、のちに時局の大勢を察して勤王陣営に加わった。
そんな慶勝の立場上、勤王派の目はただでさえ冷たい。痛くもない腹をさぐられることもある。それにくわえて今度の藩内佐幕派の不穏な動きである。
元勲の岩倉具視からも、
「尾張は軍事上の要衝。早々に帰国して叛徒を処刑されたい」
と凄まれて、ますます慌てざるを得なかった。
慶応4年(1868)1月20日、城門を堅く閉じろと命じた慶勝は、本丸御殿鳥の間にふいご党の年寄列渡辺新左衛門、城代大番頭榊原勘解由、大番頭格石川内蔵允を呼び出し、うむを言わせず斬首の沙汰を下した。
このあと4日間ので、合計14人のふいご党関係者を処刑する。
青松葉事件といわれるこの粛清は、尾張藩の勤王集団金鉄組が藩政を牛耳るために、対抗勢力の佐幕派ふいご党を抹殺したものといわれ、処刑されたふいご党の怨念が、金鉄組の連中を呪い殺すだろうとまことしやかに噂された。
慶勝、北海道開拓に着手
明治維新で失業した武士家族は、名古屋城下だけでも5万人に達した。
彼らは使用人を解雇したり、家屋敷を売り払ったりして一時をしのいだが、そんなことでは焼石に水で、生活に窮乏した武士たちが巷にあふれた。
絶望した連中のなかには、第二の維新を夢みて、薩摩の西郷軍に投じる動きさえ出てくる始末。
これを憂慮した慶勝は彼らを救うべく北海道開拓を計画する。
まず明治10年(1877)7月、入植地調査のため吉田知行、角田弘業、片桐助作を北海道に派遣。函館を中心に道南各地を踏査させ、翌11年(1878)5月には胆振国山越郡山越内村のうち遊楽部川流域150万坪の無代価下付を開拓使に願い出て許可された。
先発隊の吉田らが最初に鍬を振り降ろしたのが、現在の八雲町役場前である。後にそれを記念して「我八雲はこの所より開らかる」の碑が立てられた。
同年11月には妻帯者15戸72人、独身者10人を移住させることに成功する。
八雲の誕生
移住者のなかには、ふいご党を断罪した金鉄組の残党が多く加わっていた。彼らにとってふいご党の血が染み込んだ名古屋の地は、忌まわしい過去を思い起こさせる、憂鬱な場所でしかなかった。
翌年7月には第二陣80余名が入植。子弟教育のために八雲教育所を創設する。
教養ある武士らしく、見渡す限り鬱蒼(うっそう)たる森林に覆われた苦しい開拓に従事ながらも、次ぎの時代を担う子供たちの教育をおろそかにしなかった。
この後も移住者は続き、14年(1881)には山越内村から分かれて一村を起こすことが認められる。
東京の慶勝は『古事記』のなかにある「や雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を」という須佐之男命の古歌にちなんで、村名を「八雲」と命名した。
八雲移住者列伝
八雲開拓の指導者吉田知行は旧藩時代に監察を勤め、金鉄組の幹部として慶勝の信任が厚かった。
明治16年(1883)3月、尾張徳川家家令となって北海道を離れる。
片桐助作は賤ケ岳七本槍の一人、片桐且元の子孫といわれ、尾張藩きっての名門。入植のいきさつをまとめた『北行日記』『北地記事』は貴重な記録である。
第1回の移住者佐治為泰は武芸の人。江戸城が無血開城した時、尾張藩の軍監として城中警護を命じられたこともある。
角田弘業は尾張藩馬廻役新三郎の長男。藩校明倫堂主事を勤め、金鉄組の主要メンバ-。
この弘業の弟、角田弟彦も八雲に移住している。国学者植松茂岳の門人大島為足に歌を学び、植松の孫娘苗と結婚。まもなく八雲に移住した。その歌は感受性が鋭く、出色の佳作が多い。入植直後の八雲で歌会を開き、後進の指導にもつとめた。大正9年(1920)、「息絶えむ時のくるしさ知らねどもめやみの今にまさらざらまし」の絶詠を最後に没した。歌集のほかにも『胆振日記』39巻を遺している。
第9回 鳥取藩士と鳥取村
餓死する士族の群れ
山陰の大藩、鳥取藩32万石の士風を一言でいうと「尚武を尊び、殖財を蔑む」である。これは藩祖池田光仲以来培われてきたものだが、そんな環境に育った鳥取藩士にとって、明治維新での失業は生死にかかわる大問題だった。
彼らの困窮ぶりを伝える一例として、侍従高辻修長が鳥取を視察した時、県庁が提出した報告書がある。これには県下の士族5.464戸のうち、三食を欠いて餓死しそうな者が1.360戸に及ぶとあり、士族の貧困はまさに絶望的な状態にあった。当時の新聞もその有様を「士族の妻は貧困を嘆き、幼児は飢えて泣き叫ぶ。娘は農民の玩具となり、息子は窃盗、食い逃げを犯して監獄につながれる。昔の重臣は顔を隠して町中を徘徊し、家々を巡って金を乞い、これが禁止されると尺八やボロの木魚を抱えて田舎を廻り、でたらめなことをしゃべり散らして金をせびる。奥方たちは売春婦に落ちて巡査に追われるなど、その破廉恥な醜状は目にあまる」と伝え、問題は広がってゆく一方だった。
時の県令山田信道はこれを憂い、すでにあった民間の救済施設、鳥取養育院に助成金を与え、乞食同様の士族達を救おうとしたが、落ちぶれても体面を気にする士族達は、朝8時から夕方5時まで肉体労働をし、その賃金を積み立てる養育院に入るよりは、いっそ路上で餓死したほうがましと逃げ廻り、一向に事態は改善されなかった。
さらに明治9年(1876)には鳥取県が島根県に併合されてしまい、精神的支柱を失った士族達は大きなショックを受けて、悲しみのどん底に突き落とされていった。
共斃社と鳥取県再置運
ますます自暴自棄に陥った士族達は、管轄の島根県庁を激しく憎むようになり、彼らの中から鳥取県再置の声が沸き起こった。間もなく数千の貧困士族が連帯して、結社「悔改社」を組織し、これを14年(1881)には「共斃社」と改名、集団で過激な活動を開始する。
たとえば県内の米価を引き下げるため、暴力で米の流出を妨害するなど、彼らの怒りは頂点に達して爆発した。その勢いは、鳥取を訪れた参議山県有朋の建策で、鳥取県再置が認められた後も衰えず、彼らは徒党を組んで町中をのし歩き、暴力を振るって住民を脅え上がらせた。これには住民側もほとほと困り果て、山田県令になんとかしてくれと泣きついたが、そういわれた山田県令の方が泣きたい心境である。それでも知恵を絞った山田県令は、彼らの巣窟共斃社を解散に追い込むべく、最後には北海道移住を計画する。そこで早速、同社社長足立長郷らを県費で北海道視察に送り出したが、この足立は札幌県令調所広丈の前で暴言を吐き散らし、調所を激怒させて、
「鳥取士族の移住は断固拒否」
と、怒鳴られた。
鳥取県士族と鳥取村
あわてた山田県令は、さっそく調所に陳謝哀願して許しを乞うた。
そして15年(1882)、黒田清隆内閣顧問の建議で北海道三県(札幌、函館、根室の三県)に官費で士族を移住させる「移住士族取扱規則」が布達された時、鳥取県士族も根室県釧路港付近に移住することが許された。
その第一陣移住者41戸、203人は、笑顔の山田県令らに見送られて加露港を船出したが、その時も桟橋まで借金取りが追いすがり、激しく罵りあうという一幕が見られた。17年(1884)6月9日、船は無事釧路に到着。しかし、アイヌ民族の草小屋だけが散在する原野を見た一行は、その凄まじさに驚き、覚悟はしていたものの、心細くなってオイオイ泣く者もいたという。翌年にも第二陣64戸、326人が移住に成功し、その地を鳥取村と名付けたが、彼らの本当の苦難はこれから始まった。
第10回 番外編 新選組残党列伝
新選組隊士足立林太郎
その夜は冷たい月が出ていた。
「奸賊ばら!」
酔いをさまそうと歩いていた伊東甲子太郎は、突然ガクッと腰を落とし、一言大声で叫ぶなり、バッタリ斃れて絶命した。暗闇から躍り出た新選組の大石鍬次郎は、伊東の死体を木津屋油小路まで引きずってゆき、そこに棄てた。
時に慶応3年(1867)11月18日の出来事である。底冷えする京都の夜風はたちまち鮮血を凍らせた。まもなく伊東派の同士加納道之助らが駆けつけ、泣きながら遺骸を抱き上げた瞬間、隠れていた永倉新八ら40数名の新選組隊士が一斉に斬りかかる。加納ら4名は薩摩藩屋敷に逃げ込んだが、取り囲まれた3名は全身血達磨になって憤死した。
これが有名な「油小路の惨劇」である。新選組を脱して勤王系の御陵衛士を作った伊東一派に対する、非情な血の粛正だった。
このとき襲撃に加わった新選組隊士のなかに21歳の足立林太郎がいた。弘化4年(1847)11月15日に美濃国稲葉郡南長森村(現在の岐阜県各務原市)で生まれた足立は幼名を亀次郎という。10歳で父を失い、16歳の時、家出して江戸御玉ケ池の千葉玄武館に入門、北辰一刀流を学ぶ。そして19歳になると京都に上って新選組に入隊した。このとき名前を足立林三郎と改める。
油小路事件の後、坂本龍馬暗殺の黒幕といわれた紀州藩の公用人三浦久太郎を護衛し、海援隊が三浦の旅宿京都天満屋を襲撃した時、足立は長槍を奮って三浦を救ったという。ただしこの事件を描いた子母沢寛『新選組始末記』の「天満屋騒動」のなかに足立の名前は見当たらない。
札幌の元老足立民治
慶応4年(1868)の鳥羽伏見戦争では淀川堤の戦闘で顔面貫通の銃傷を負い、大坂城に敗走して幕府艦隊に乗船。横浜に上陸した。そこでフランス人医師の治療を受け、2月下旬には江戸へ到着。早速新選組の屯所に行き、近藤勇が新編成した甲陽鎮撫隊に加わった。まさに筋金入りの佐幕派である。ところがこれも敗退し、千葉県を経て山岡鉄舟門下の私宅に潜んだ足立は、上野彰義隊に馳せ参じようとしたが、
山岡に、
「正義順逆の理を誤るな」
と、強く説得されて断念した。
その後の足立は百八十度変身する。剣友の勧めで薩摩軍に投じ、薩摩藩士村橋久成の信頼を得ると、官軍として奥州征討に参加したのである。
会津落城後、東京に凱旋すると、油小路で殺しあった元御陵衛士加納道之助の紹介で黒田清隆の幕僚となり、箱館戦争に従軍した。
新選組残党を憎悪していた加納がなぜ足立を推薦したのかは謎である。戦後、薩摩藩士族に取り立てられ、民治と改名する。明治4年(1871)には開拓権小主典に任官し、晩年は札幌区会議員に選ばれ、人々から「札幌の元老」と呼ばれた。
大正8年(1919)8月、73歳で没した。
もう一人の新選組隊士
伊東グル-プの一員として勤王派御陵衛士に加わった新選組伍長阿部十郎隆明は、油小路事件の時、鳥狩りに出掛けて留守だった。後に薩摩藩の庇護を受け、伊東の仇を討つために近藤勇を伏見街道墨染で狙撃した。
鳥羽伏見戦争では薩摩軍の中村半次郎に従って活躍し、次いで赤報隊幹部を経て、奥州戦線に従軍した。明治5年(1872)2月には開拓使出仕として札幌に赴任する。そして明治6年(1873)の『開拓使官員録』には3人の元新選組隊士の名前が並んだ。まず新選組伍長から御陵衛士に移った権中主典加納通広(道之助)、同じく伍長で御陵衛士出身の少主典阿部隆明(十郎)、最後に異色の少主典足立民治(高行)である。
生涯、油小路で殺された伊東ら4名の菩提を弔い続けた阿部と加納が、どんな心境で足立と仕事をしたのだろう。興味は尽きない。
小樽で往生した永倉新八
油小路で御陵衛士3名を斃した新選組二番隊組長永倉新八は、甲州で敗退後、近藤らと喧嘩別れをして旗本芳賀宜道が組織した靖兵隊60名の副長に迎えられた。
薩長憎しの一心で東北各地を転戦したが、士気は一向に奮わず、明治2年(1869)には出身藩である松前藩に帰参することが許された。家老下国東一郎の口利きである。永倉は藩医杉村松柏の養子となり、名前を杉村義衛と改め、第二の人生を歩み出す。京都時代新選組の斬り込み隊長として活躍し、薩長志士から不倶戴天の敵と呼ばれながらも、その凄まじい必殺剣の冴えを恐れられた永倉新八は消滅した。
江戸潜伏中は伊東の実弟鈴木三樹三郎らに付け狙われたこともあったが、北海道移住後は実戦で鍛えた神道無念流岡田十松門下免許皆伝の腕前を活かして月形村(現在の月形町)樺戸集治監看守の剣術教師となった。後には札幌の農科大学生徒にも教授し、現在北海道大学正門横には「新選組隊士永倉新八来訪の地」という記念碑が立っている。
晩年を小樽で過ごし、大正4年(1915)1月5日、天寿を全うして77歳で没した。