除籍を読み解く(1)


 家系図を作成する第一歩は除籍を取得して、その内容を理解することです。


サンプル1
サンプル1

 

 そこで実際の除籍を使って、私の家系図講座で行っているような読み解きを行ってみましょう。

  1. 改製原戸籍と朱印が押されています。これにより、この除籍が次の書式である明治31年(1898)式戸籍を作製するさいに用いられた原戸籍であることが分かります。
  2. 本籍地が記載されています。現在は本籍地に居住していない家が多くありますが、当時は徴兵検査のため本籍地は居住地であることが前提でした。
  3. 相続年月日不詳とあります。これは明治5年(1872)に作製された近代最初の戸籍である壬申(じんしん)戸籍の作製前に家督相続が行われたということです。明治5年以前の相続であっても年月日が記載されている場合もありますが、このように不詳となっているケースもよく見られます。
  4. 前戸主亡とあります。亡とは死亡を意味し、この戸籍が作製された時点(明治19年以降)において、戸主の父親である前戸主が死亡していることが分かります。
  5. 転籍とあります。明治28年(1895)に東京市麻布区笄(こうがい)町から四谷区北裏町に本籍地を移動したことが分かります。このような本籍地の移動については、その理由を推測するようにしましょう。この時期に、なぜご先祖は本籍地を移したのか? 除籍に理由は書かれていませんが、移動元と移動先の町が当時どのような環境にあったのか、何か言い伝えが残っていないかなど、こだわることによって何か分かることがあるものです。
  6. 本籍地変更とあります。明治34年(1901)に北裏町の98番から103番地に本籍地を移動しています。これも⑤と同じです。同じ町内の中でなぜ移動したのかについてこだわります。元々は借家で、このときに自宅を購入したか、それとも両方の土地を手に入れ、新しい土地のほうに家を新築したかなど、いろろいな推測ができます。当時の戸主の年齢も参考になります。壮年であれば、事業拡大により土地を取得したのかも知れませんし、高齢であれば、同居する家族が減ったため隠居用の小さな家に移り住んだのかも知れません。推測をふくらませる手掛かりはほかにもあります。当時の地図を見ることによって、移動元と移動先の距離が分かります。番地が連続していなくても実は隣りあっている土地かも知れません。だとすれば、経済的に余裕が出てきたので、自宅用か事業用の所有地を拡大したとも考えられます。正解は分からないことが多いですが、このようにいろいろと推測することによって系図的想像力が培われます。この系図的想像力が向上しない限り、本当の意味で資料を読み解くということはできないのです。
  7. これは本籍地の地名が更生された記載です。本籍地を移動したのではなく、同じ空間の地名そのものが変わることを更生といいます。この場合は北裏町が消滅し、花園町となりました。
  8. 変体かなです。「む免」と書いて「むめ」と読みますが、これは旧仮名遣いですから、現在の発音では「うめ」になります。当時の女性は戸籍上は「む免」であっても日常の生活では梅子と自ら署名したり、他人から梅子名義で手紙が送られてくることもありました。それは女性名に子を付ける習慣があったからです。津田塾大学を創設した津田梅子も戸籍上の本名は「むめ」でした。
  9. ここに2文字の空白があります。これは塗抹といい、下の文字を塗りつぶした跡です。ここには戦前までは士族(江戸時代の武士階級)、平民(江戸時代の庶民)などの族称が記載されていました。戦後に法務省の通達で塗抹処理が行われたため、現在発行される除籍では族称のすべてが塗抹処理されています。
  10. 亡父■■久右衛門と書かれています。■■には苗字が書かれていますが、プライバシー保護のためぼかし入れました。久右衛門はむ免の父親ですが、亡父とあることから、む免が嫁いだ明治10年(1877)の時点ですでに死亡していたことが分かります。
  11. 入籍とあります。この場合の入籍は婚姻のことです。む免は万延元年(1860)の生まれですから、明治10年(1877)に嫁いだときには17歳でした。このように除籍に書かれている事項については、そのとき当事者が何歳であったかを必ず計算することが大切です。そこから推測できることもあるのです。たとえば江戸時代から明治時代にかけて、そうじて若くして結婚する男女は裕福な家の出身者が多く、貧困層では奉公などの関係で晩婚になる傾向がありました。このような歴史人口学の知識を用いれば、除籍の年齢から読み取れることがあるのです。
  12. む免の死亡記載です。やはり年齢を計算しましょう。む免は62歳で亡くなっています。歴代にわたって死亡年齢を確認することにより、長寿家系、短命家系など、その家の寿命特徴が見えてくることがあります。後世遺伝学(エピジェネティクス)によれば、ご先祖の食生活やストレスが子孫の寿命に影響を与え、それが数代にわたって引き継がれることが確認されています。家系調査で必要な知識は歴史学だけではありません。生物学のエピジェネティクスや臨床心理学のジェノグラム(心理的家系図)から学ぶこともきわめて多いのです。そういう関連学際の知識を持つことによって系図的想像力は確実に高められてゆくことになります。
  13. この女性名も変体かなです。「婦く」と書いてあります。読みは「ふく」です。
  14. 文字がかなりくずされています。明治時代の除籍を読み解くためには、江戸時代の崩し字の知識が不可欠です。「明治参拾九年七月弐日芝區神谷町参番地■■未之助婚姻芝區届出」と書かれています。婦くの婚姻記載です。
  15. これも変体かなの知識が無いと読めない女性名です。「者留」と書いてあります。読みは「はる」です。
  16. 「戸主■■■■長男■■と婚姻」とあります。者留の結婚相手が戸主(戸籍の筆頭者。家長)ではなく、戸主の長男だったため、このように書かれました。
  17. これも変体かにで、「曽う」と書かれています。「てう」と読んではダメです。曽うの発音は「そう」です。
  18. 「鋼太郎弟■■正五郎」と書かれています。結婚相手の記載方法が者留と曽うでは異なっています。その理由は戸主との関係性が違っているためです。者留の夫になった人は戸主の長男(家督相続前)でしたが、曽うの夫になった人は鋼太郎という兄が戸籍の戸主で、その弟でした。兄の戸籍に入っているということは、すでに父は死亡していると考えられます。このように続柄の記載の仕方によって、属している戸籍内の立場を理解することができるのです。
  19. これを「ひを」と読んではいけません。そんな女性名はありません。これも変体かなで、「ひ左」と書いてあります。読みは「ひさ」です。
  20. 「家督相続人に撰定」と書かれています。通常は養子と書かれますが、ここでは珍しい表現を用いています。家督相続人に撰定ということは、将来、養父の家督を継ぐ予定の養子という意味です。そういう養子は一般の養子とは区別して養嗣子と言いました。
  21. 分家の記載です。明治以降、家督を相続する予定のない男女は分家して新しい家を興し、戸主となりました。女性の場合は嫁ぐか、養女に出されるのが一般的でしたが、男子の場合は分家しました。分家をするさいには戸主の許可が必要でした。


 ここでは、サンプル1の除籍を読み解いてみました。通常授業では、もっとささいな点にまでこだわり、それぞれの人物が婚姻や分家などのイベントを何歳で体験したのかを計算しながら、彼らが暮らしていた家、彼らの生活をリアルに感じられるようにようになるまで、推測を深めてゆきます。それこそがまさに系図的想像力を働かせるということなのです。