系図のQ&A


Q  家に古い家系図があります。書かれていることが事実かどうか知りたいのですが? 

A  江戸幕府が文化9年(1812)に旗本、大名の系図をまとめた『寛政重修諸家譜』を編纂すると、全国で家系図作成ブームが巻き起こり、依頼されて家系図を作る業者(学者)まで現れました。この時期から明治にかけて作成された家系図が全国に相当数残されています。これらの家系図の特徴は、江戸時代以前のことは情報が少なく、不確かである一方、江戸時代以降になると戒名なども書かれて正確さが高まる傾向があります。年代物の家系図は真偽はとりあえず置いておいて、その家で代々大切に伝わって来たこと自体に大きな意義があると考えるべきではないでしょうか。それでも内容の真偽がやっぱり気になるという人は、研究者に見せて、意見を聞いてみるといいでしょう。私も求めがあれば、拝見します。


Q 系図本を見ると、多くの家が源氏や藤原氏につながっていますが、これは本当ですか?

A 現代に伝わっている系図を見ると、その大半が源氏、平家、藤原氏、橘氏から始まっているため、この四氏のことを四大姓といいます。この四氏が歴史上、大いに活躍し、繁栄した家系であることは間違いありませんが、実は四大姓の系図の中には古代豪族など、別系統の家がかなり大量に紛れ込んでいることが研究で分かっています。このように系図を意図的にねじ曲げることを専門用語では「仮冒(かぼう)」と言います。系図が歴史家から信用されないのは、この仮冒がはなはだしいためですが、仮冒をした人たちにしてみれば、家系図は他人に自慢できるものでなければ価値がありません。そうなると歴史のかなたに消え去った古代豪族の子孫と正直に書く意味はなく、誰もが憧れる第56代清和天皇(850-81)の流れをくむ清和源氏の子孫と書くほうが断然よかったわけです。もちろん、正真正銘の清和源氏の子孫もいますが、仮冒で清和源氏などと称していた家も多く存在していました。織田信長や徳川家康も仮冒を行ったといわれています。


Q 家系図を代理作成する業者のなかには1,000年前までご先祖がさかのぼれるという表現をしている業者もいますが、本当にそんな昔までさかのぼれるのですか? 

A 結論から言うと無理です。古代の基本史料は「日本書紀」「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」のいわゆる「六国史」です。系譜関係としては弘仁6年(815)に嵯峨天皇の勅命によって編纂された「新撰姓氏録」がありますが、本当に少ないのです。中世になると史料は増えますが、それでも『大日本史料』(東京大学史料編纂所)に収録されている文書の量は信長入京あたりまでで、400字詰原稿用紙に換算して約20万枚といわれています。これに地方の文書が多少は加わりますが、それにしても多いというわけではありません。ところが、これが近世になるとけた違いに多くなるのです。江戸時代にあった約6万3,000村で作成された文書の数たるや実に膨大なもので、現存しているものだけでも数億点にのぼります。

 この残存している文書の量と系図には密接な関係があります。近世から近代にかけて、多くの家で系図の編さんが行われ、そういう系図が現在まで伝わっていますが、そこに書かれている近世以前の情報については、天皇家・公家・守護大名・社家を除くと、残存している文書の少なさから他の文書で裏付けをとることが困難なのです。裏付けのとれない情報を歴史家は決して史実とは認めません。また、これらの系図には官職の誇張など明らかな粉飾も目立ち、年数に対して代数が不足している例もよく見受けられます。歴史的裏付けうんぬんの前に、初歩的な歴史知識の誤りがあまりにも目立つものが多いのです。現存している系図がこのありさまですから、ましてや中世・古代の系図が伝来していない家の中世・古代の系図を現代人が復元するなどということは、残存史料の少なさから考えて、できるはずがありません。

 業者が言っている「千年前までさかのぼれる」と言うのは、『姓氏家系大辞典』に記載されている出自のことを言っているのでしょう。たとえば、武田氏といえば第56代清和天皇(850-81)の流れをくむ清和源氏の子孫の系統が有名です。この武田氏は「武田菱」「割り菱」「花菱」を愛用していますから、武田姓でこれらの家紋を使用していれば、清和源氏の武田氏の一族であるかも知れないという推測はたしかに成り立ちますが、そこに文書の裏付けはまったくありません。もしかすると明治5年(1872)に武田という苗字を創姓した家が、「武田なら家紋は『武田菱』だろう」ということで、箔を付けるために「武田菱」を使い始めた可能性もあり得るわけです。

 これらのことを踏まえると、ごく一部の特権階級を除いて近世以前の系図を組みこと自体が不可能であることがよく分かります。苗字と家紋から導き出した出自も誤る要素が多分にあることも分かるはずです。 

 業者としては出来るだけ古くまでさかのぼれることを売りにしたいのでしょうが、名字が誕生した1,000年前というのはいただけません。過ぎたるは及ばざるが如し。私に業者の邪魔をする気は毛頭ありません。本をよく読めば、「そう簡単な話ではないよ」とキチンと書いているのでしょうが、タイトルだけを見て「家系図は1,000年前までさかのぼれるんだ」と勘違いする人もいるかも知れません。そういう誤解が世間に広まるのはよろしくありません。せいぜい寺請制度が始まり、過去帳の整備が開始された400年前くらいまでにしておいたほうが無難でしょう。それ以前まで調べられるような宣伝すると、かえってアカデミックな歴史家からはうさん臭く思われるでしょうし、歴史を知らないと苦笑されてしまいます。

 家系図に関わる者は、長い間アカデミックな歴史家からは異端のように見られてきました。その原因はこの「さかのぼり年代」のような歴史を学んだものであれば絶対にしないような表現、発言をときどきするからです。このあたりで、家系図にたずさわる者は歴史学に基づいた系図と歴史ロマンのような系図をきちんと区別する史観を持つべきでしょう。そういう視点を持たない限り、日本の家系図は欧米のような発展をみせることはないでしょう。




 Coffee Break Vol.3 山本五十六と名軍師

 


 太平洋戦争で連合艦隊司令長官を務めた山本五十六海軍大将のご先祖が武田信玄の軍師として知られる山本勘助の異母弟だということをご存知でしょうか。

 山本大将は明治17年(1884)に旧越後長岡藩士高野貞吉の六男として、現在の新潟県長岡市で生まれました。海軍士官を志し、明治38年(1905)の日本海海戦では少尉候補生のまま装甲巡洋艦「日進」に乗船し、左手と左大腿部に重傷を負いました。その後、海軍大学校に在学中、 旧藩主牧野忠篤の口添えで、旧長岡藩家老山本帯刀家を相続し、高野から山本に改姓しました。

 この山本帯刀家の由緒書が長岡藩士の先祖を記した「諸士由緒記」に次のように見えます。

高 千弐百石 山本勘介同家、山本帯刀左衛門成行嫡子、実孫 

 山本勘右衛門隷献 初名源五郎

一 永禄七酉(原注 子カ)、与稲垣長茂尊、成定公へ献隷、同九寅、岡崎御判札之内、於御当家可令掌諸士旨有仰、且同年、水野信元へ乞副状之一人、山本勘介同家山本帯刀左衛門嫡子・実孫、父勘右衛門部屋住ニ而病死、祖父帯刀左衛門家督相続高千百石被下、祖父帯刀左衛門所領弐千百石之処、家督之節同姓山本四郎兵衛分知千百石被成下、御家老職相勤之旨申伝之、有故て四郎兵衛家断絶、其後名改勘右衛門、御家老職・組支配被仰付

 長岡藩家老山本家の初代は帯刀左衛門成行ですが、この成行は上記の文章によると、山本勘介同家とあります。勘介とは甲斐(山梨県)の戦国大名武田信玄に仕えた名軍師山本勘助と推測されており、 同家という表現はあいまいですが、ほかの系図から異母兄弟であったことが分かっています。その系図というのは長岡市中央図書館に保管されている「山本系譜」です。この系図にははっきりと、初代の成行は山本勘助の異母弟と書かれています。これが事実であれば、山本帯刀家と山本勘助は一族ということになります。五十六は養子ですから血はつながっていませんが、天才的な軍略家といわれた山本五十六と戦国時代の名軍師山本勘助が系図上でつながるのは面白いですね。

 なお「諸士由緒記」は長岡藩士589家のルーツを調べるのに欠かせない記録です。『長岡藩政史料集(2)家中編』に収録されているので、長岡藩士ゆかりの方はぜひご覧になることをお勧めしますが、これをまとめたのは五十六の実家高野家のご先祖である高野栄軒といわれています。