代表家紋一覧
家紋に秘められた意味を知ろう
日本の家紋(Kamon)は約1,000年前に生まれました。以来、その数は増え続け、現在では2万種類を超えるています。みなさんの家もいろいろな家紋を使っていると思いますが、ご先祖がその家紋を選んだのには、何らかの理由や目的がありました。その決め手となったのが家紋に備わっている意味や由来です。
なお、ご自分の家の家紋が何か分からないという方が近年増えています。非常に残念な話です。ご自分の家紋を知りたいという方は調べ方などの相談に応じますので、当HPのご相談からお問い合わせください。
では、家紋の由来について解説しましょう。
葵(あおい) Aoi
葵紋で有名なのは京都の賀茂神社です。葵を神聖な草とみなし、神様の降臨を願う「葵祭」が現在でも行われています。徳川氏が葵紋を使うのも賀茂神社の神官加茂氏にゆかりがあるからだとされ、家康が天下を取ると、三つ葉葵紋は将軍家の権力の象徴とされ、葵紋をみだりに使用することは遠慮されました。しかし先祖が神官だった本多氏や信濃国(長野県)の善光寺などはその後も使い続けています。またわずかですが「花葵」や「葵車」などの葵紋を使う家もありました。
石(いし) Ishi
神社の参道などに敷き詰められた石畳を文様化したもので、江戸時代に佐野川市松という歌舞伎役者が衣服に描いたので、「市松模様」とも言われました。鎌倉時代の『吾妻鏡』には、すでに石畳紋の旗のことが記され、近世大名では土屋氏が愛用しました。
井筒・井桁(いづつ・いげた) Izutsu Igeta
井戸に由来します。井戸は昔から生命の源と見なされ大切にされました。井筒は正方形、井桁は菱形をしています。井伊氏や今井・駒井・長井氏など井文字姓の家が愛用し、財閥三井家も「井筒の中に三文字」紋を使っています。
梅鉢(うめばち) Umebachi
梅は菅原道真が梅花を愛したことから天満宮の神紋(梅の花)となり、さらに菅原一族が愛用して家紋となりました。天満宮の氏子も使っています。梅紋の種類には梅の花と梅鉢があり、梅鉢は花芯(かしん)を太鼓の鉢状に描いたので、梅の花よりもよく使われています。菅原氏の子孫という加賀藩(金沢藩)前田氏の「加賀梅鉢」が有名です。
扇(おうぎ) Ogi
扇は末広がりで縁起が良く、「おうぎ」が神を「仰(あお)ぐ」にも通じることから、家紋となりました。平安末期に常陸国(茨城県)の名族佐竹氏が源頼朝から「扇に月丸」紋を賜ったのが扇紋の始まりです。また扇を美的にした檜扇(ひおうぎ)や扇の骨に張る地紙(じがみ)も家紋となりました。
沢瀉(おもだか) Omodaka
湿地に生える水草のオモダカに由来しています。オモダカの葉っぱが武具の盾(たて)に似ていることから「勝ち草」と呼ばれ、武士が好んで家紋にしました。また水野という苗字は湿地を意味していることから、水野氏も愛用しました。
貝(かい) Kai
貝紋には法螺(ほら)貝や兜貝を描いたものがあります。法螺貝は殻頂に穴をあけ、口金をつけて吹くと、大きな音が出ることから、戦場で山伏などが吹き鳴らしました。その音には霊力が宿っていると信じられていました。家紋としては石井氏が「割貝」を使用しています。
梶(かじ) Kaji
昔から梶の木は神霊が宿る神木と見なされ、神社の境内に植えられていました。そんな関係で神主家が愛用した家紋です。とくに長野県諏訪大社の大祝(おおほうり。神職)諏訪家やその一族が使用した「立ち梶の葉」紋は広まっています。甲信越地方でこの家紋を使用している家は諏訪大社、諏訪氏とのゆかりを考えるべきでしょう。
柏(かしわ) Kashiwa
柏は神社の境内によく植えられた神木です。古代人はその葉っぱを食器代わりに使用していましたから、命と深いつながりがありました。神木=神の御加護という連想で神職が愛用した家紋です。宮城県で栄えた桓武平氏葛西(かさい)氏族の家紋でしたから、東北ではその一族、家臣がよく使っています。
片喰(かだはみ) Katabami
道端に生えている三ツ葉の雑草ですが、その三ツ葉には①優れた人柄、②完璧な知性、③子孫の繁栄という意味が込められていました。繁殖力が非常に旺盛なため、おもに子孫繁栄の願いを込めて利用されたものです。大名酒井氏の片喰が有名で、武士の家は剣を配して剣片喰としました。
雁金(かりがね) Karigane
秋に飛来する水鳥の雁(がん)に由来します。雁は嬉しい便りを告げる鳥とされ、願(がん)に通じることから、 護符紋として利用されました。播磨灘の海賊を撃破した花房氏の「尻合わせ三つ雁金(花房雁金)」はとくに有名で、海賊はこの紋を見ただけで逃走したといわれています。また柴田勝家の「二つ雁金」も有名です。こちらはよく見ると上の雁はオスでクチバシを開き、下のメスは閉じています。家紋にはこういうささいな変化があって面白いですね。両翼を結んだように交差させたものは変化形で、結び雁金と言います。
桔梗(ききょう) Kikyo
すがすがしい美しさで可憐に咲く桔梗は岐阜県の名族土岐氏(清和源氏頼光流)の代表家紋です。土岐氏が桔梗を家紋として選んだのは、桔梗の古語をトキと言うからです。土岐一族の明智光秀も使っています。明智の桔梗は水色で彩色されていたことから、「水色桔梗」と呼ばれました。かつて家紋には色彩があったのです。明智左馬助秀満(光秀の娘婿という)の子孫という伝承を持つ坂本龍馬も「組あい角に桔梗」を使っています。
菊(きく) Kiku
菊は第16代仁徳天皇のころ、大陸から渡来した外来種の植物ですが、鎌倉時代になって後鳥羽上皇(1180-1239)がこの菊を大変に愛され、衣類や調度に描いて用いたことから、自然と皇室の御紋章となりました。菊は中国では君子のシンボルとされ、その均整の取れた形は美しいだけではなく、生命の象徴である太陽を連想させます。
家紋として用いている家も多く、天皇家とおなじ十六葉菊も使われています。夏目漱石の家も用いています。ちなみに夏目家は「井桁(いげた)に菊」ですが、分家の漱石は「菊菱」を用いています。昔はこのように本家と分家で家紋を区別しました。
杏葉(ぎょうよう) Gyoyo
杏葉とは馬の装身具に用いる金具などのことで、これで飾られた馬は歩くたびにキラキラと光り輝きました。そもそも中国から渡って来た言葉で、白楽天の詩に「杏葉の鞍」というものがあります。家紋としては豊後国(大分県)の大友宗麟が用いました。肥前国(佐賀・長崎県)の龍造寺信生は宗麟に勝利すると、この家紋を戦利品として使い始め、龍造寺氏に代わって鍋島氏が台頭すると、やはりこの家紋を使い始めました。浄土宗の寺院でも寺紋として使いますが、これは宗祖の法然が大友一族の出身だからです。
桐(きり) Kiri
天皇家からの下賜(かし)紋です。古代中国の言い伝えでは、優れた皇帝が出現する時、鳳凰(架空の鳥)が大空を舞うといわれていました。その鳳凰が日ごろ棲んでいる木が桐でした。その伝説にちなんで天皇家が紋章として使用し、菊紋とともに使っていたのです。菊紋はほとんど下賜されませんでしたが、桐紋は足利尊氏や豊臣秀吉に下賜されました。そして足利氏や豊臣氏がこれを家臣団に下賜して全国的に広がったのです。一般的なのは五三桐、秀吉が使った太閤桐は五七桐です。徳川家康は大坂夏の陣後、天皇からの桐紋下賜を断っています。これは三つ葉葵紋の権威を高めるためと、豊臣家を思い起こさせる桐紋を嫌ったためでした。
釘抜(くぎぬき) Kuginuk
大工道具の釘抜の座金を紋章化したものです。武士が広く利用しましたが、その理由は釘抜を「九城抜き(九つの城を落城させる)」にひっかけたからです。また形が目結紋に似ていることから、第59代宇多天皇(867-931)の流れをくむ宇多源氏佐々木氏族の子孫も愛用した。
雲(くも) Kumo
古代の人は雲の形が変化するのを見て、吉凶を占ったといわれています。雲紋は単独で用いられることは少なく、曽我氏の「左三つ巴に雲」、斎藤氏の「日輪に雲」など、主体となるデザインの吉運を強めるために添えられる図形としてよく用いられました。
源氏車(げんじぐるま) Genjiguruma
公家が乗る牛車の車輪に由来しています。「源氏物語」の絵巻に牛車がよく描かれたことから源氏車と呼ばれました。源氏が用いた家紋という意味ではありません。第38代天智天皇の重臣藤原鎌足(614-69)の流れをくむ藤原秀郷将軍の子孫という伊勢神宮の神職榊原氏が最初に使い始め、同族の佐藤さんも愛用するようになりました。現在では佐藤一族の代表家紋となっています。一説には輪宝(インド渡来の紋章で、現在はインドの国旗にも採用されています。仏法の守護印)の変型とも言われています。
桜(さくら) Sakura
我が国の国花である桜は、その散りぎわの潔(いさぎよ)さと形の美しさから武士、庶民を問わずに愛されました。花見は江戸時代から一大娯楽としてにぎわいました。また国学者の本居宣長が称賛したことから護国神社の神紋にも採用されています。桜井さんや桜田さんなどが苗字にちなんで家紋とし、元首相の吉田茂も山桜紋を使用しています。
蛇の目(じゃのめ) Janome
弓の弦(つる)を巻くつけておく輪っかに由来しています。その形が蛇の目玉に似ていることから蛇の目と呼ばれました。蛇の目ににらまれると、カエルは固まって動けなくなってしまいます。蛇の目には強烈な目力が備わっていたのです。戦場で敵がカエルのように震えあがって動けなくなるようにと願った武士が使ったともいわれますが、実際は形のシンプルさが愛されたことと、蛇神信仰によって広がった家紋です。加藤清正の紋です。蛇の目ミシン工業の蛇の目は、ミシンの部品が蛇の目紋に似ていたことに由来します。
雀(すずめ) Suzume
雀はよくさえずります。そのさえずりにはイタコ(巫女)の口寄せのような呪術的な霊力があると信じられていました。家紋としては、佐伯氏が使用しています。これは佐伯の「さえ」とさえずりの「さえ」をひっかけたもの。この佐伯氏から弘法大師空海が出たことから、讃岐国(香川県)の長尾寺などのお寺でも寺紋として使用しています。ふくら雀は「福(ふく)」らませた雀の紋で、何とも愛らしい図形です。
州浜(すはま) Sumaha
浜辺に出来る島状の州に由来しています。古くから州浜は不老不死のユートピア、蓬莱(ほうらい)島に模され、吉祥のシンボルとされてきました。江戸時代には婚礼の飾りにも利用された縁起の良い家紋です。
鷹の羽(たかのは) Takanoha
大空の王者鷹の武勇にあやかった家紋です。熊本県の一宮である阿蘇神社の神紋(並び鷹の羽)で、その氏子である菊池氏が愛用して広まりました。尚武のシンボルであったことから、菊池一族以外の武士も好んで家紋にしました。現在では並びよりも「違い鷹の羽」が主流となっています。また通常は左羽を上にした左重ねですが、右羽を上にした右重ねもあります。
竹・笹(たけ・ささ) Take Sasa
中国では竹を君子の植物といいます。それは真っすぐに伸びて(正直、誠実)、節が固い(節度がある)からです。我が国の吉祥「松竹梅」に選ばれたのもそれに由来しています。高橋さんの由来は神様が降りてくるより代(しろ)になる高い柱のことですが、古来から高い柱には竹が使われたことから、高橋さんは竹に笠紋を多用しています。上杉氏は竹に雀紋を使います。伊達氏の竹に雀紋は上杉氏から贈られたものです。笹紋も意味は竹と同じです。
橘(たちばな) Tachibana
橘はその芳香から百果の王と呼ばれました。橘紋はその橘の実に由来しています。ミカンの原型ですが、食べることはできません。第11代垂仁天皇に命じられて不老長寿の妙薬を探すように命じられた田道間守(たじまもり)が持ち帰った植物といわれています。しかし、帰国したときには天皇はすでに亡くなっていました。御所の庭に植えられ、左近の桜、右近の橘と言われました。氏名にちなんで橘氏の子孫が愛用しています。
揚羽蝶(あげはちょう) Agehacho
その優雅さでは家紋のなかでも屈指なのが蝶紋です。平安時代には平家が愛用し、壇ノ浦で滅亡したとき、平家の公達(きんだち)の魂は蝶になって飛び去ったという伝説があります。しかし現在では平氏よりも藤原氏の子孫のほうが多用しています。羽を立てた立体的な揚羽蝶と羽を伏せた備前蝶などがあります。織田信長も蝶紋を使いました。
打板(ちょうばん) Choban
打板とは禅宗で修行僧に食事の時刻を知らせる時に打つ打器のことです。素材は青銅で、雲の形をしていたことから雲板(うんぱん)ともいわれました。形の面白さと信仰から家紋になったと思われ、全部を描いたものと頭だけを描いたものがあり、頭部だけのものは「打板頭」と呼んで区別しました。武家では清和源氏の小菅氏などが用いています。
九曜(くよう) Kuyo
北斗七星を敬う妙見信仰に由来しています。妙見菩薩は戦勝祈願と生命保全の神様で、桓武平氏流の千葉氏が篤く信仰しました。空海は唐からの海路、嵐で海が大荒れになったとき妙見菩薩に祈って航海の安全を祈願しました。九曜(九星)は北斗七星と不動明王・お釈迦様の星を加えた九つの星からなっています。
渡辺星(わたなべぼし) Watanabeboshi
これも妙星信仰に由来しています。九曜紋と同じく月星紋です。渡辺さんの代表紋で、三つ星はオリオン座中央の三星。ギリシャ神話のオリオンは巨人の狩人でした。また中国ではこの三つ星を将軍星と呼んで崇拝しました。いずれも戦勝祈願を意味し、一文字は戦場で一番手柄を立てる渡辺さんの意気込みを表したものです。
蔦(つた) Tsuta
蔦は形が優美なので女性に好まれました。女紋(女性用の家紋)にもよく使われています。蔦からのびるツルが顧客に絡みついて離さないことを願って商人や花柳界の女性が愛用しました。その一方で八代将軍徳川吉宗が葵紋の代わりに用いた高貴な紋でもあります。葉を剣状にした鬼蔦は強運と繁栄のシンボルとされ、こちらは武将に好まれました。
鶴(つる) Tsuru
鶴はその姿が美しいことから吉祥の鳥とされ、舞鶴や鶴見など地名によく用いられ、転じて苗字にもなりました。翼を広げた鶴に似た城を舞鶴城と言うこともあります。家紋としては藤原系の公家が好んで用い、武家では藤原秀郷将軍の流れをくむ蒲生氏郷などが愛用しました。太宰治(本名は津島修治)の家紋も鶴の丸です。これは日本航空の社章にも採用されました。
巴(ともえ) Tomoe
弓を射る時、左腕につける革製の鞆(とも)に由来しているといわれますが、中国などにもあり、正確な起源はわかりません。①水の渦巻き②蛇のとぐろ③雷の電光④古代装飾品の勾玉(まがたま)に由来するという説もあります。いずれにしても神聖な紋章として神社の神紋などに多く用いられ、民間では火事除けの護符とされました。屋根瓦に使われるのはそのためです。現在の紋帳の多くはオタマジャクシ形の頭が時計回り進んでいるものを左三つ巴、その逆を右三つ巴といっていますが、歴史的には逆の時代もあり、いまだに紋帳では混乱がみられます。
撫子(なでしこ) Nadeshiko
秋の七草の一つ撫子は「大和撫子」という言葉でも分かる通り、日本女性の純真可憐さを表すシンボルでした。その形の美しさから家紋となり、藤原秀郷将軍流の斎藤氏などが愛用しています。美濃国(岐阜県)の戦国大名斎藤道三も使用しました。
波(なみ) Nami
古代人は波を水神のしわざと考え、波が荒れ狂うと、水神の怒りを鎮めるため、いけにえを捧げました。日本武尊の東征に従った妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)も尊の軍が上総(千葉県)から相模(神奈川県)へ渡るとき、海が荒れたため、自ら入水して水神の怒りを鎮めました。武士は波の力強い姿に強い生命力を感じたともされています。
戦国大名の斎藤道三が用いた「道三波」が有名です。道三波は波頭の右に三つ、左に二つの水しぶきを描いていますが、これは人生は割り切れる点と割り切れない点があるという道三の哲学によるものだといわれています。
また幕末の幕府勘定奉行で、赤城山の埋蔵金のカギを握る人物とされる桓武平氏流小栗上野介(こうずけのすけ)の「丸に立波」も有名です。
蓮(はす) Hasu
蓮はインド原産で、仏教と縁が深く、仏座には蓮弁(ハスの花弁)が描かれています。仏教とともに渡来すると、寺院の飾り瓦に描かれ、奈良の法輪寺や京都の安楽寺の寺紋にもなりました。家紋としては苗字の文字にちなんで蓮見氏などが用いています。
日足(ひあし) Hiashi
日足の日とは太陽のこと。日本は日のもとであり、まさに日本人は太陽の子。古代男性名の彦とは「日(ひ)の子(こ)」であり、女性名の姫は「日の女(め)」のことです。日足紋は太陽の光を放射状に描いたもので、肥前国(佐賀・長崎県)の戦国大名龍造寺氏が愛用したことで知られています。江戸時代になると、龍造寺の縁戚で佐賀藩主となった鍋島氏の日足紋が有名になりました。
菱(ひし) Hishi
菱は紀元前二五世紀のメソポタミア文様に見える図形で、非常に古い歴史を持っています。日本では縄文時代から使われていました。第56代清和天皇(850-81)の流れをくむ清和源氏の武田氏は祖先の源義家が住吉神社で戦勝祈願をしたさい、拝領した鎧に菱紋がついていたことから、武田菱を家紋とし、一族は割り菱と花菱を使いました。武田氏と同族の小笠原氏は第96代後醍醐天皇から王の文字を家紋にするよう言われましたが、恐れ多いので、王文字を崩して松皮菱紋を創作したといわれています。花菱は唐花を菱形にしたもので、武田一族が割り菱とともに愛用しました。
引両(ひきりょう) Hikiryo
竜は雨を降らせ、天に昇る霊獣です。引両紋の横棒は竜といわれています。二つ引きはオスとメスの竜が絡み合いながら天に昇る姿を抽象的に描いたもので、三つ引きは三匹の竜。清和源氏の新田氏は新田一つ引き(大中黒)を使い、同族の足利氏は二つ引き、桓武平氏の三浦氏は三つ引き(三浦三つ引き)を使用しました。丸と横棒がつなかっているものは、「丸に」といい、丸と横棒の間が切れているものは「丸の内に」といって区別しています。
袋(ふくろ) Fukuro
袋とは大切なものを入れる物入のことで、中にお金やお守りを入れました。家紋としては施薬院(せやくいん)氏の砂金袋が有名です。施薬院氏が砂金袋紋を使った理由については二つの説があり、医者だったので金に等しい薬を入れたからとも、施薬院は「しゃくいん」とも呼ばれ、それが変化して砂金(しゃきん)と結びついたとも言われています。
藤(ふじ) Fuji
藤の木は平安京の女官たちが御所後宮の飛香舎(ひぎょうしゃ)に植えて鑑賞した由緒正しい植物で、これを「藤壷」といいました。後に第38代天智天皇の重臣藤原鎌足(614-69)の流れをくむ藤原氏が登場すると、その子孫が藤原の藤にちなんで、藤紋を愛用しました。最初に写実的な下り藤が生まれ、次いで上り藤が誕生します。下り藤は本家を示し、上り藤は家運の上昇を願った家紋でした。
分銅(ふんどう) Fundo
分銅とは天秤ばかりの一方の皿に載せて重さを量るおもしのことです。銅で出来ていたことから分銅と呼ばれました。丸にくびれがある独特なデザインが面白く、1970年に大阪で開催された万博博覧会の会章「万博桜」は「分銅桜」をアレンジしたものです。家紋としては徳川将軍家の一族松平氏が「分銅」と「四つ分銅」を使っています。
牡丹(ぼたん) Botan
牡丹は別名を洛陽花といい、その昔、唐の都洛陽で盛んに栽培されました。日本では藤原五摂家の筆頭、近衛家の家紋として有名です。近衛家は天皇家に次ぐ家柄を誇ったことから、長い間、菊紋に次ぐ高貴紋とされてきました。武家では、近衛家の一族と称し、牡丹紋を下賜された弘前藩主津軽氏が使用しています。
松(まつ) Matsu
松は長寿と節操のシンボルです。神の降臨を「待つ」にも通じる縁起の良い木でした。また冬になっても緑が枯れないことから、生命力の強さを表し、子孫の繁栄を願う家紋でもありました。松竹梅のトップで、香川県の讃州藤家(藤原氏)が好んで使用しています。松紋のなかでとくに美しいのは枝が三本出ている三階松です。中間の枝が左に突き出れば左三階松、右なら右三階松といい、月を配した優雅なものもありました。
抱き茗荷(だきみょうが) Dakimyoga
茗荷はショウガに似た香味のある食用植物です。茗荷そのものには特段の意味はありませんが、神仏の加護を「冥加(みょうが)」と言うことから、音が同じ茗荷を使ってこれを表現しました。一説にはインド渡来の摩多羅神(またらじん)信仰に由来しているといわれています。いずれにしても神仏の強い加護がある紋とされ、作家の三島由紀夫(本名平岡公威)や脚本家の向田邦子が使用しました。
四つ目結(よつめゆい) Yotsumeyui
インド発祥の文様「鹿ノ子絞り」に由来しています。目が寄り添っているように見えることから、目の結い(グループ)と呼ばれました。一族の団結を表す家紋とされています。第59代宇多天皇(867-931)の流れをくむ宇多源氏佐々木氏族の代表紋で、佐々木さん以外にも一族で使用している家が多数あります。近江国(滋賀県)の戦国大名六角氏、出雲国(島根県)の戦国大名尼子氏、乃木希典大将など使用家は枚挙にいとまがありません。また青森県で大いに広がり、県民の10%以上が使用しています。若貴兄弟の花田家も青森県出身で、隅立て四つ目を使用しています。
木瓜(もっこう) Mokko
中国発祥で地上にある鳥の巣と卵を文様化したものです。中国では役人の朝服(官服)に描かれました。我が国では神社の御簾(みす)の周囲を飾った帽額(もこう)の絹布(きぬぬの)に好んで描かれたことから、「もっこう」と呼ばれ、それに木瓜の文字が当てられました。神仏の加護を表す家紋です。漁村では海の神様恵比寿様の護符として愛用され、農村では五穀豊穣を願う紋でした。日本海沿岸の富山県ではルーツに関係なく約30%、石川県では約15%、新潟と青森県でも約15%の家が使用しています。楕円形のものは木瓜、または横木瓜といい、円形のものは四方木瓜といいます。四方の瓜が五つのものを五瓜(ごか)といい、その中に唐花を入れると織田木瓜になります。織田信長の代表紋です。
矢・矢筈(や・やはず) Ya Yahazu
弓矢は代表的な武具です。その尚武にあやかった家紋が矢・矢筈紋でした。矢筈紋は矢を弦につがえる矢頭の凹字状を紋章化したものです。伊賀忍者の棟梁である服部半蔵の一族が愛用しました。
山(やま)・山形(やまがた) Yama Yamagata
山紋は古代から信仰の対象とされてきた山岳を紋章化したものです。山は神様の住む天に近く、霞(かすみ)や雲がかかり、その合間から神様が降臨して来ることもありました。また自然な山をリアルに描くのではなく、幾何学模様でえがくこともありました。それが山形です。
山紋としては大名の青木氏が用いた「青木富士の山」が有名です。富士山のふもとに霞がかかっている姿を描いたものです。山形紋は苗字にちなんで〇山、山〇姓がよく用いました。藤原氏の流れをくむ山角氏などが有名です。また山は発展を連想させることから、山形紋は会社の社章にもよく利用されています。
蘭(らん) Ran
蘭は中国から渡来した植物ですが、奈良時代には広く知られ、人々に愛されていました。蘭という言葉の響きも美しく、江戸時代の文人墨客が用いた雅号では、蘭を使ったものが一番多いと言われています。家紋としての使用例は少なく、武家では辻氏が用いたことが記録に見えます。
龍(りゅう) Ryu
龍は洋の東西を問わず、霊力を持つ動物として神聖視されてきました。中国では皇帝のシンボルとなっています。日本では水中から天に昇って雨を降らせる龍神として信仰されました。龍紋は円形をした巻龍が多く、龍の丸などはリアルな姿を描き、雨龍はデフォルメされて一見すると龍には見えません。家紋としては奥州一関藩(岩手県一関市)の藩主田村氏などが用いています。
輪鼓(りゅうご) Ryugo
輪鼓は「倭名類聚抄」の芸具に「その形は細い鼓に似て糸の上で輪転する」とあります。昔の子供遊び道具で、形が面白いことと、バランスの大切さを教える教訓として家紋に採用されました。家紋としては藤原秀郷流の内藤氏が「輪鼓に手鞠(てまり)」を使っています。ほかに近世大名の大関氏も使いました。
笹竜胆(ささりんどう) Sasarindo
秋に可憐な花を咲かせる笹竜胆は薬草です。根が苦いので竜の胆のようだと言われ、笹竜胆と書かれるようになりました。命を救う草であることと、均整のとれた美しい形から家紋とされました。公家源氏の棟梁である第62代村上天皇(926-67)の流れをくむ村上源氏が愛用したので、昔から源氏の正式紋と見なされました。俗説では第56代清和天皇(850-81)の流れをくむ清和源氏の子孫源義経が使用したといわれていますが、それを裏付ける確証はまったくありません。後世の付会です。村上源氏では久我(こが)氏とその一族である岩倉具視が使用し、清和源氏では石川氏が愛用しています。
輪宝(りんぽう) Rimpo
輪宝はインドの国旗に描かれている図形です。古代インド人が想像した信仰上の武器で、この巨大な輪が戦場を駆け巡ると悪敵は退治され、山は平になり、地上に幸福がもたらされると信じられました。仏教とともに日本へ伝わり、寺院の寺紋によく用いられましたが、後には家紋にもなり、近世大名では津軽、加納、三宅氏が使用しました。
丸はどうして付いているのですか?
発生したころの家紋はすべて丸無しでした。丸付きの家紋は新しい変化形なのです。では、なぜ丸を付けたかというと、理由は二つ考えられます。
第一の理由は本家と分家を区別するためです。五三桐の家から分家した家は丸に五三桐を使って、本家と分家の違いを明確にしました。さらに丸に五三桐の家から分家した家は丸を角に変えたり、細輪に変えたり、五七桐に変えたりして区別しました。家紋の種類はこうして増えていったのです。
第二の理由は家紋のすわりの問題です。江戸時代になると家紋は紋付きの普及で衣服に描かれることが多くなり、その際には丸を付けたほうが美しく見えました。そのほうが「すわり(安定感)」が良かったのです。この「すわり」のために額縁として丸を付けた家もありました。
家紋から分かることはありますか?
家紋は名字と同じころに発生し、まるで名字に連れ添う妻のように現在まで伝わってきました。その種類は微細な変化を数えると約3万に達するともいわれていますが、基本的な図形は6.000種ほど。ある家のルーツを推測するときには、家紋を利用することがあります。たとえば四つ目結いという家紋は第59代宇多天皇(867-931)の流れをくむ宇多源氏佐々木氏族の子孫が愛用した家紋として知られていますから、この家紋を使っている家は佐々木一族の子孫か、佐々木氏に仕えていた家臣の末裔かも知れません。田中さんのように源氏や平家など複数の系統から出ている場合、苗字だけではどの系統なのかが全く分かりません。しかし、田中という苗字に三つ巴という家紋の情報がプラスされると、にわかに茨城県つくば市田中から発祥した藤原北家の流れである可能性が高まるのです。それはこの田中さんが三つ巴をよく使うことが記録などから分かっているからです。このように家紋はルーツを推測する上で、重要な役割を果たしており、「苗字を絵化したもの」とも言われています。
女紋というのは何ですか?
女紋というのは女性が専用で使う家紋のことです。女紋の習慣のある地域では、嫁いだ女性は、妻になったあとも夫の家の家紋ではなく、実家から持ってきた家紋を使います。実家の家紋は母親から譲られることもあれば、父親の家紋の場合もあります。女紋は女性の家紋ですから、草花が好まれます。父母の家紋のうち、ふさわしいものを選ぶこともあります。母親から譲られる場合は母系継承という形になり、祖母から母、その娘へと引きつがれてゆきます。なかには嫁いできた妻に使わせる女紋を決めている家もあります。そういう家の女紋も桔梗や藤、蔦など植物系が好まれます。この女紋の習慣は中世以来武家社会では夫婦別姓だったことに由来すると考えられますが、北海道は行われていません。
参考文献