おもいで
1991年に北海道名寄市で日本苗字博物館の構想が生まれると、苗字研究家の丹羽基二先生(苗字と家紋の本を約150冊も書かれている)は監修者に就任され、何度も名寄市を訪れました。
私は先生の助手としてプロジェクトに参加し、終始先生と行動を共にしました。
名寄市の有志が苗字に関心を持ったきっかけは、「名前が寄る(集る)」と読めるマチの名前からでした。発端は語呂合わせみたいなものでしたが、丹羽先生の参加によって計画は壮大なスケールへと飛躍していったのです。
当時、私は札幌に住んでいましたが、上京して丹羽先生のお宅に泊り込み、夜通し話し合ったこともありました。
先生はとにかく苗字や家紋のお話が大好きで、お話を始めると止まらなくなってしまうんです。そういう先生でしたね。
私の最初の仕事は基本計画書の作成でした。建築物などのハード面は専門の業者に任せられ、私はデーター構築、展示物、図書室などのソフト面を担当しました。
この世界に類を見ないユニークな博物館を誕生させるべく、先生と私は名寄市の有志と共に粘り強く計画を進めていったのです。
やっと完成した基本計画書の事業予算は39億8,500万円になりました。15,000冊の図書室を備え、専用のシアターもあるまさに苗字と家紋の殿堂でした。
ところで、
先生はよく私にサイン本をくれました。「著者のあとを継いでください」とメッセージが書かれた本を渡されて、どう返事をしたらいいのか、とまどったことを昨日のように思い出されます。
2001年に『道産子のルーツ事典』(中西出版)を出版しました。いま読むと至らないところが目立つ本ですが、北海道民の苗字を解説した本はいまだにこれしかありません。
この本に丹羽先生は「『道産子のルーツ事典』を推薦する」という推薦文をわざわざ書いて下さいました。こんな書き出しから始まるもので、全文を拙著の巻頭に掲載させていただきました。
私のもっとも親しい友人で、もっとも気持ちの分かり合える岸本良信先生が素晴らしいご本を出版された。
名付けて、
『道産子のルーツ事典』
一見して、わかりやすい。おもしろい。そして知りたい苗字の内容が要領よく述べられている。これこそ、わたくしたちが多年求めていたルーツ事典だ、手を打って感心した。
(中略)
先生は若くして(いまも若い)この道に入り姓氏や系譜の勉強をされた。しかもその該博な知識はおどろくべきものがある。その上、努力のすさまじさにも頭が下がる思いである。
本書は、その該博な知識の一端にすぎないが、本書をひもとくと実力の片鱗をうかがうことができる。
(以下略)
この本が出た直後...
丹羽先生から出版を祝う色紙が送られて来ました。嬉しかったですね。
ところが、まだサプライズがあったのです。
丹羽先生から電話がかかってきて、「すぐに東京へいらっしゃい」と言われました。
上京すると、日本家系図学会(会長は丹羽先生)から丹羽記念学術賞を授与されました。まさに驚きでした。
受賞講演は緊張しましたね。これ以降、何百回と講演をしましたが、このときほど緊張したことはありませんでした。
私はこの受賞を機に苗字の研究を一生続けようと決意を固めました。
しかし一方で残念なこともありました。日本苗字博物館の計画が頓挫してしまったことです。
原因は資金難でした。
もしもこの博物館が完成していたら、苗字研究はどんな発展を遂げていただろか、と考えてしまいます。今以上に苗字やルーツに関心を持つ人が増えていたことは間違いないでしょう。
その後も丹羽先生との親しい関係は2006年に先生がお亡くなりになるまで続きました。先生のお墓に彫られている戒名は紋覚院智叡鴻基居士。紋覚院...苗字や家紋の研究に生涯を捧げられた先生にぴったりの院号ですね。
実は私には、もう一人恩師がいます。家系研究協議会を創立された丸山浩一先生です。
先生との出会いは、30年以上前のことです。当時、秋田県本荘市(現在の由利本荘市)に住んでおられた丸山先生を訪ね、食事やお酒を頂戴し、ずうずうしくもお宅に泊めてもらいました。
以降、現在に至るまで親交が続いています。丸山先生が岐阜県の博物館から苗字データの執筆を依頼されたときには、助手としてお手伝いさせていただき、先生と分担して1万近い苗字の由来を書きました。そんなご縁でこんな立派なものも頂戴しました。ありがたいことです。
私は本当に良き師に恵まれました。
昭和、平成を代表する苗字の研究家といえば丹羽基二先生。家系・系図の研究家といえば丸山浩一先生です。
私はこの両先生に20代からかわいがられ、どちらの先生とも一緒に仕事をするという貴重な体験をできました。
お二人の薫陶がなければ、今の私は無いと思っています。
心から感謝しています。